じじぃの「人の死にざま_607_近藤・勇」

近藤勇 - あのひと検索 SPYSEE
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Shinsengumi saigo no samurai 動画 YouTube
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近藤勇 KONDO
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近藤勇 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
近藤勇は、新選組局長。晩年は幕臣。勇は通称、諱は昌宜(まさよし)。慶応4年(1868年)からは大久保剛、のちに大久保大和。
【生涯】
農民・宮川久次郎の三男として生まれる。出身地である武蔵国多摩郡上石原村は現在の東京都調布市野水(北西部に位置)に相当する。
文久3年(1863年)、清河八郎の献策を容れ、江戸幕府は14代将軍・徳川家茂の上洛警護をする浪士組織「浪士組」への参加者を募った。斎藤一を除く試衛館の8人はこれに参加することを決め、2月8日、浪士組一向と共に京都に向けて出発した。中山道を進み、2月23日に京都に到着すると、壬生郷士の八木源之丞の邸に宿泊し、世話になった。
京都守護職を務める会津藩主・松平容保に嘆願書を提出し、京都守護職配下で「壬生浪士組」と名乗り、活動を開始した。
元治元年(1864年)6月、新選組熊本藩士・宮部鼎蔵の同志である古高俊太郎を捕縛した。古高の供述から中川宮邸放火計画を知った新選組は直ちに探索を開始し、一味が潜伏していた池田屋に突入して宮部一派を壊滅させた(池田屋事件)。この働きにより、新選組は朝廷と幕府から感状と褒賞金を賜った。禁門の変出動を経て、近藤は隊士募集のために帰郷する。ここで伊東甲子太郎ら新隊士の補充に成功した。慶応元年(1865年)、永井尚志の供として広島へ赴く。そして慶応3年(1867年)、新選組幕臣となり、近藤は御目見得以上の格となる。これにより近藤は幕府代表者の一員として各要人との交渉を行い、そのなかには土佐藩の参政である後藤象二郎等も挙げられる。
慶応3年(1867年)11月18日、近藤は伊東を酔わせ、帰り際に大石鍬次郎等に暗殺させた。その後、他の御陵衛士たちを誘い出して夜襲し、藤堂らを殺害した。その報復として近藤は12月18日、伏見街道御陵衛士の残党に銃で撃たれて負傷する。そのため、慶応4年(1868年)1月3日の鳥羽・伏見の戦いでは隊を率いることができずに大坂城で療養している。
4月には下総国流山(現在の千葉県流山市)に屯集するが、香川敬三率いる新政府軍に包囲され、越谷(現在の埼玉県越谷市)の政府軍本営に出頭する。
しかし、大久保が近藤勇と知る者が政府軍側におり、そのため総督府が置かれた板橋宿まで連行される。近藤は大久保の名を貫き通したが、元隊士で御陵衛士の一人だった加納鷲雄に近藤であると看破され、捕縛された。その後、土佐藩谷干城)と薩摩藩との間で、近藤の処遇をめぐり対立が生じたが、結局、4月25日、中仙道板橋宿近くの板橋刑場(現在の東京都板橋区板橋および北区滝野川付近)で斬首された。首は京都の三条河原で梟首された。その後の首の行方は不明である。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
近藤勇(こんどういさみ) (1834-1868) 34歳で死亡。 (一部抜粋しています)
明治元年春、近藤勇は、江戸をはじめ関東各地に起った佐幕派の脱走兵を集め、下総流山に本陣を構えて官軍と対決しようとしたが、まだ態勢が整わないうちに官軍を迎える羽目になった。
4月4日、やむなく近藤は降伏し、かつ大久保大和という偽名でいい逃れようとしたが、たまたま官軍の中にいた元高台寺党新撰組が惨殺した伊東甲子太郎一派)の一人に見破られた。
土佐の軍監としてその場にあった谷守部は嘲笑していう。「猾賊(かつぞく)多年悪をなす。志士を殺害すること無数。天命つきて縛(ばく)につけば三尺の子供でも看破されることは明らかなのに、愚かしくもぬけぬけと首を出して来る。誠に名高き近藤勇寸鉄も労せずに縛についたのは、古狸がたくみに人を化かし、調子に乗って昼間に出て来て子供に捕ったようなものだ」
さすがの近藤勇も、のちの頑固将軍谷干城(たてき)にかかっては叶(かな)わない。
近藤が事態を甘く見ていたことは事実だが、しかし新撰組が無実の罪を着ていることもあることを彼は知らなかったのだ。元陸援隊士の谷は、坂本龍馬中岡慎太郎を殺したのも新撰組だと思いこんでいた。そうでないことを谷干城が知っていたら、近藤勇は助かったかもしれない。
近藤はたちまち縛りあげられて、4月25日、宿はずれの平尾一里塚(今の国電板橋駅東口あたり)で斬首された。
首はここで数日さらされた上、京都に送られ、三条河原でふたたびさらしものになった。

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