じじぃの「幕末に活躍したあの人の英語力」

トミー 立石斧次郎 長野桂次郎 をひ孫が紹介 HOWDY TOMMY
しかし、ここでご紹介する当時16歳の少年、立石斧次郎は例外でした。時は幕末、万延元年(1860)、日米修好通商条約批准書交換のため太平洋を渡り、現地アメリカで超人気アイドルとなり、「トミー」の愛称で親しまれ、『トミーポルカ』というヒット曲まで誕生させたやんちゃな少年がなんとこの写真に写っているのです。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~howdytommy/
竜馬、海援隊内で英語を公用語にしていたことが判明?!
亀山社中の秘蔵文書を発見! 愛帝目出意亜大学文学部 言成 誠教授によると、『弘松家所蔵』文書内に記述されている『海援隊約規』の別巻が高知県で発見され、その文書内に海援隊内では特定の機密情報に関する意思疎通手段として、隊員が英語のみで会話することが必須とされていたことが記述されていたことが今回判明した。
http://bizmakoto.jp/makoto/articles/1004/01/news003.html
高知県立坂本龍馬記念館
当館の展示物の中に、和英通韻伊呂波便覧(わえいつういんいろはべんらん)という本があります。発行は、龍馬もいた土佐海援隊ですが、発行年が慶応4年(明治元年・1868年)ですので、実際に龍馬は出来上がったこの本を見ていないはずですが、作る段階では眼を通しているかも知れません。この本は和英辞典のようなもので、ABCからはじまって、時計の見方、英語のことばなどをいれていますが、morning(朝)を「モネン」、evening(夕)を「エブネン」など、発音記号やふりがなつきで、わかりやすく大きな字で書かれています。なおこの本には、waterを「ワラ」と読む例は出てきませんが、ジョン万次郎の取調べの話に出てきたように思います。
http://www.ryoma-kinenkan.jp/study/qa/material/
『日本の歴史 ハテ、そういえば…? いまさら聞けない長年の大疑問』 歴史の謎を探る会/編集 河出書房 2010年発行
ペリーとの交渉は、何語を使ったのか?
1853年にペリー提督が黒船を率いて日本に姿をあらわしたときの驚きは、想像にかたくない。
かとって、きてしまったものを無視するわけにもいかない。まして、相手は巨大な大砲を備えた軍艦だ。江戸幕府も早急に対処する必要があった。
かくして幕府から送り出されたのが、浦賀奉行与力の中島三郎助である。彼は通詞(通訳)の掘達之助を連れて小舟にのり、ぺりーが乗船するサスクエハナ号にむかった。
ところが、堀は通詞とはいえ、日本と通商していたオランダ語しか話せない。
「余はオランダ語を話すことができる」
彼の英語力は、これだけいうのが精いっぱいだった。しかし、アメリカ側はそういう事情をすでによく知っていた。
ちゃんと、オランダ語の通詞を用意していたのである。掘達之助の面目もなんとか立ったというしだいだ。
ジョン万次郎の英語力、実際にはどの程度だった?
土佐中浜村(高知県土佐清水市中浜)の漁師の次男に生まれた万次郎は、天保12年(1841)、14歳で漁の手伝いをするために海に出て、そのまま遭難した。
5日半の漂流ののち、太平洋の無人島・鳥島に流れ着いて143日間のサバイバル生活を送っていた万次郎は、数人の生き残りとともにアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に救われる。
その頃、日本は鎖国状態であったため、万次郎とともに救われた漁師たちはハワイで降ろされた。
だが、ホイットフィールド船長に気に入られた万次郎は、みずからも希望して捕鯨船の航海に同行する。ジョン・ハウランド号の一員となった万次郎には、いつしか船名にちなんだジョン・マン(John Mung)のニックネームがつけられていた。
かくして万次郎は「ジョン万次郎」となって嘉永4年(1851)、鎖国中の日本に帰国した。長期間にわたる尋問を受けて土佐に帰ったあと、アメリカに関する知識と英語力を買われ、幕府に招聘(しょうへい)されて直参(じきさん)の旗本となった。このとき、万次郎には、故郷の名にちなんで中浜の姓がさずけられた。
さて、開国に先駆けて世界を知り、外国人と親交を結んだジョン万次郎だが、彼の英会話能力はどの程度のものだったのだろうか?
じつは、彼の英語の発音は、現在の英語辞書にしめされている発音とは大きく異なっていたという。
しかし、耳に聞こえたままを口から発音する万次郎の英語は、「耳で聞いて口から出す」という英会話の極意にかなっていた。
彼がつくった「英語」=「カタカナ表示」=「和約」辞典の一部を紹介しよう。
「mister」=「メシタ」=「○○様」
「hair」=「ハヤ」=「髪」
「England」=「インギラン」=「英語」
「water」=「ワタ」=「水」
「rain」=「ロエン」=「雨」
この発音のよりに話すと、現在の英米人によく通じるとされ、英語の辞書にしめされた発音よりも、正しい発音に近いことを証明する実験結果もある。実際、ジョン万次郎の発音を参考にして英語をおしえている英会話教室もあるという。
このことからもわかるように、実戦で鍛え上げた彼の英会話能力は、かなり高レベルだったといえる。

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どうでもいい、じじぃの日記。
今年(2010)は徳川幕府による遣米使節団の派遣から150周年なんだそうである。1860年(万延元年)、勝海舟福沢諭吉、ジョン万次郎等、使節団77名を乗せた咸臨丸はアメリカに向かった。
彼ら、アメリカで見聞した知識が、日本を世界の一等国に導いた。
このとき、通訳を務めたジョン万次郎の功績は計り知れないものがある。
ジョン万次郎とはどんな人物だったのだろうか。
アメリカ本土に渡った万次郎は、ホイットフィールド船長の養子となって一緒に暮らし、1843年にはオックスフォード学校や1844年にはバーレット・アカデミーで英語、数学、測量、航海術、造船技術などを学ぶ。彼は寝る間を惜しんで熱心に勉強し、首席となった。民主主義や男女平等など、彼にとって新鮮な概念にも触れる。 −−ウィキペディアWikipedia)より。
たまたま、海で遭難した14歳の少年が日本の運命を大きく変えるとは驚きである。かなり優秀な人だったようだ。
『日本の歴史 ハテ、そういえば…? いまさら聞けない長年の大疑問』に「ジョン万次郎の英語力、実際にはどの程度だった?」が載っている。
「England」を「インギラン」と発音するのだそうだ。そんな話聞いたことがない。
「morning」の「g」、「night」でも「gh」など無駄な字があったりする。
日本語の中にも発音しない字というのがある。和泉市の「和」や大石内蔵助の「内」など発音しない字を含む地名、人名があるようだ。
「幕末に活躍したあの人の英語力」はどんなだっただろう。ネットで「幕末に活躍した 英語力」をキーに検索してみた。
坂本龍馬
 「竜馬、海援隊内で英語を公用語にしていたことが判明?!」。
●掘達之助
 彼は1853年7月浦賀にCommodore Perryがアメリ東インド艦隊の軍艦4隻を率いて現れた時の通詞だったが、彼の話せる英語は"I talk Dutch."だけだったという。
●森山栄之助
 文政3年(1820年)、長崎に生まれる。家は代々オランダ通詞を務めていた。嘉永元年(1848年)、偽装漂着のアメリカ人ラナルド・マクドナルドから本格的に英語を学び、蘭・英2ヵ国語を使いこなせる通詞として活躍する。なお、彼の英語塾の門下生には津田仙、福地源一郎、沼間守一などがいる。また福澤諭吉も短期間ではあったが学んでいる。手塚治虫陽だまりの樹』に脇役ではあるが序盤で度々登場する。
●立石斧次郎
 万延元年(1860)、日米修好通商条約批准書交換のため太平洋を渡り、現地アメリカで超人気アイドルとなり、「トミー」の愛称で親しまれ、『トミーポルカ』というヒット曲まで誕生させた。
牧志朝忠
 江戸後期、首里王府の異国通事。琉球首里の人。中国語・英語・仏語に堪能。
伊藤博文
 伊藤博文の英語はニコライ二世との会話で問題がなかったようだ。
その他、英語の達人という人に新渡戸稲造南方熊楠がいる。
坂本龍馬が英語の達人だったとは驚いた。
ついで、1867年のパリ万博に参加した清水卯三郎、3人の柳橋芸者は英語(フランス語?)を話したのかしら。