じじぃの「人の死にざま_1350_ブルック大尉」

ブルック船長

ブルック船長が描いた咸臨丸航海図

ジョン・ブルック ウィキペディアWikipedia)より
ジョン・マーサー・ブルック (John Mercer Brooke、1826年12月18日 - 1906年12月14日)は、米国の海軍軍人、技術者 、科学者、教育者。大西洋横断海底ケーブルの敷設に多大な功績があり、また著名な海軍兵器発明者でもあった。咸臨丸が太平洋を横断した際には技術アドバイザーとして搭乗したが、実質的にはブルックが艦の指揮をとった。
【太平洋(咸臨丸搭乗と事実上の指揮)】
海洋探査の専門家として、ブルックは幾つかの太平洋探検ミッションに参加した。1858年9月26日にはフェニモア・クーパーの艦長としてサンフランシスコを出発、途中太平洋の島々を調査し、1859年8月13日には横浜に到着した。しかし23日に台風に遭遇し座礁。乗組員は全員無事で、積荷も概ね回収できたが、船体の破損は酷く、破棄された。その後ブルックは横浜に滞在し、設立間もない幕府海軍に対しカウンセリングおよび技術指導も行った。
1860年2月、幕府が米国に使節団を送る際に、一行を乗せたポーハタン号に加え、その護衛という名目で咸臨丸が太平洋を横断した。ブルックはその技術アドバイザーとして咸臨丸に搭乗した。出港直後に嵐に会うと言う不運もあったが、日本人乗組員は技量不足であり、実質的にはブルックらアメリカ人乗員が艦を動かした。ブルックはこのことを日記に記載しているが、死後50年間日記の公開を禁じていたため、航海の実態が知られたのは1960年代になってからである。更に彼は、旅を共にしてきた日本遣米使節団の面目と、開国したばかりの日本の国際的立場を慮り、彼らが揶揄や侮りの対象とならぬよう、米国のメディアに対して「日本人乗組員達は十分な技術を有していた」と好意的な談話を載せ、部下の乗組員達にも緘口令を敷いた。

                            • -

『日本史探訪 第七集』 海音寺潮五郎/著 角川書店 1973年発行
咸臨丸 江藤淳 (一部抜粋しています)
咸臨丸の総指揮にあたったのは、軍艦奉行木村摂津守喜毅(せっつのかみよしたけ)。艦長の勝麟太郎以下、士官・水夫96人の乗組員が決定する。乗組員の中には、木村摂津守の従者として同行した福沢諭吉、通訳の中浜万次郎なども含まれていた。
この時、たまたま日本沿岸で難破したアメリカ海軍の測量船フェニモア・クーパー号の乗組員が日本に滞在していたため、その船長であったジョン・M・ブルック大尉以下11名のアメリカ海軍将兵が、咸臨丸に同乗し帰国することになった。
こうして、日米合わせて117名にのぼる乗組員とともに、咸臨丸がペリー来航の地浦賀を出航したのは、1860年正月19日であった。
太平洋に乗り出した咸臨丸は、連日すさまじい嵐に翻弄される。波穏やかな近海の航路しか知らなかった日本人は、遠洋航路の現実を、はじめて思い知らされることになったのである。
江藤 これは戦前の国定教科書――修身の教科書ですが――に出ていたのですが、「勇気」という題でね。咸臨丸の太平洋横断は日本人だけで成し遂げた、日本人の勇気の象徴である、というようなことが言われている。
 どんな書物を見ても、英雄的な日本人が、ペリー来航から7年、海軍伝習所開始からわずか5年にして敢行した快挙であるということになっている。皆さんがそう思っていらっしゃる。私なども、ごく最近までそう思っていたんです。
 ところが、実は、史料を正確に検討してみると、必ずしもそうは言えないんですね。実際には、咸臨丸は、だいたい、まあ控えめに見ても、航海の3分の2以上、アメリカ海軍大尉のブルックが指揮したんですね。
 ところが、この点では、福沢諭吉、これは木村摂津守の従者として乗り込んでいた。それから勝海舟、これはもちろん艦長だった。この2人、どちらも日本人独自の業績のように言っているんですね。
 のちに、明治になってから、勝海舟が明治政府に仕えて、伯爵・枢密顧問官になると、福沢諭吉は「痩(やせ)我慢の説」という文章を書いて、これを痛烈に批判した。したがって、勝と福沢という2人は、どうも思想的にも微妙に食い違っている。何より人間的に、お互いに、何か虫が好かなかった論敵どうしです。
 ところが、この宿命的な対立者である福沢と勝が、口を合わせて、ブルック大尉の存在をひた隠しにしている。
 『福翁自伝』を読みますと、要するに、これは日本人だけがやったんだ。ブルック大尉以下11人のアメリカ士官・下士官・水兵が乗り込んでいたけれど、測量するについても、彼らは彼らでやる。日本人は日本人でやる、いささかたりとも彼らの世話にならなかったのは、誇っていいことだと思います、と福沢は言っているのですね。
 海舟の『氷川清話』を見ても、これは日本人がやったんだ、とたいへんいばって書いている。
 私は、このブルックと、ブルックの率いるアメリカ海軍の将校がいなければ、おそらく咸臨丸はどこかで難破していたか、非常にみじめな航海をしていたに違いないと思います。
 ですから、その点で、勝海舟福沢諭吉という2人の巨人が、口を合わせて、ブルックの貢献を歴史から抹殺していることについては、私は非常に不満に思いますね。
 それぐらい気負ったのであろうとは思います。それぐらいにして、振興させようとしなければ、鎖国に慣れた日本人は、海というものを認識しなかったのだろうと思います。海外に日本人の目を向けるためには、日本人をおだてなければならなかった。激励しなければならなかった。ただ、その激励の度が過ぎましてね、本来、われわれが当然評価しなければならない、ブルック大尉および彼のクルーの貢献度を、忘れてしまっていることはまことに残念ですね。
ジョン・M・ブルック大尉の孫にあたる、ジョージ・M・ブルックさんは、ワシントンから車で4時間ほど離れた、ヴァージニア州レキシントンに健在である。
ブルックさんは、祖父ブルック大尉の研究が学位論文になった歴史学者で、ヴァージニア陸軍大学の教授である。
ブルック大尉自筆の『咸臨丸航海日記』や咸臨丸のスケッチなど、貴重な資料を見せていただいたあと、ブルックさんは取材班のインタビューに答えて、物静かな語り口で、次のように話してくれた。
ジョージ・M・ブルック 私の祖父は、14歳の時に海軍にはいった。根っからの軍人でした。彼は何度も遠洋航海を経験したあと、やがて海軍の科学的な方面、たとえば測量や船の設計などに興味を持つようになりました。
 性格はたいへんまじめで努力家、しかも好奇心の旺盛な人間で、本を読むにも。文学より科学や哲学書を好むタイプでした。しかし、ユーモアのセンスはあまりなかったようで、友だちの背中をポンと気軽にたたいたり、仲間と酒を飲んで酔っぱらうようなことはしなかったようです。
 『咸臨丸航海日記』によると、咸臨丸は太平洋を横断中、20年か30年に一度というくらいの嵐に見舞われました。ですから、日本の士官と乗組員は、船酔いにかかり、船室に降りたきりで、甲板に上がってこれないことはしばしばだったようです。
 この間、少数のアメリカ人クルーがすべてをやらなければならなかったのですが、幸い彼らはベテランぞろいでした。日本人は船の中でも、習慣どおりの米のご飯と味噌汁を食べようとしましたが、海が荒れている時は、それはとてもむずかしいことでした。そして彼らの服装にしても、アメリカ人から見ると、遠洋航海にふさわしいとは言えなかったようです。
 しかし、祖父は咸臨丸に乗り込んだ日本人の素質を高く評価しており、彼らはやがてすばらしい海軍を作るだろう、考えていました。

                            • -

ジョン・ブルック 咸臨丸 Google 検索
https://www.google.co.jp/search?q=%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%83%E3%82%AF&rlz=1C1CHPO_jaJP580JP580&es_sm=93&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=SC9sU9bBMMbOlAXym4EQ&ved=0CEAQsAQ&biw=966&bih=589#q=%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%83%E3%82%AF%20%E5%92%B8%E8%87%A8%E4%B8%B8&tbm=isch