じじぃの「人の死にざま_586_R・スプルーアンス」

レイモンド・スプルーアンス - あのひと検索 SPYSEE
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Battle of Midway 1 ミッドウェー海戦 1 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=wvveAeS58m8
Battle of Midway 2 ミッドウェー海戦 2 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=6l6xjH91zUU&feature=related
Battle of Okinawa 1 沖縄戦 1 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=a7u7zdR8Sbs
Battle of Okinawa 2 (Revision version) 沖縄戦 2 (修正版) 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=YW4nMygtjEo&feature=related
レイモンド・スプルーアンス フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
レイモンド・エイムズ・スプルーアンスアメリカ海軍の軍人、最終階級は大将。海軍十字章受章者。
【生涯】
スプルーアンス1886年7月3日にアメリカ合衆国メリーランド州ボルチモアで、アレキサンダースプルーアンスとアンナ・エイムズ・スプルーアンスの長男として産まれた。
1903年アナポリスアメリ海軍兵学校)に入学した。当時アナポリスでは上級生が下級生にリンチを加える (en:Hazing) 荒廃状態にあったが、われ関せずといった態度で過ごしていた。士官不足に伴う卒業繰上げ政策で半年卒業が繰り上がり、1906年9月12日にアナポリスを卒業した。卒業席次は209名中21番目だった。
1926年に海軍大学校に入学、1927年に卒業すると海軍作戦部情報課勤務となった。この時日本大使館駐在武官・坂野常善大佐や伊藤整一中佐と親交があった。
1941年に太平洋艦隊所属第5巡洋艦戦隊司令官の辞令が下りる。
1942年6月のミッドウェー海戦の時、上司のハルゼーは病気で緊急入院。ハルゼーに代わって第16任務部隊を指揮し、ミッドウェー島に迫る日本軍を迎撃・撃退せよとの命令を太平洋艦隊司令長官ニミッツ大将から受ける。この役目はハルゼーの推薦で、条件として副官以外の幕僚はハルゼーの幕僚をそのまま引き継ぐ事と、旗艦は空母「エンタープライズ」に置く事が定められていた。これを受諾すると、副官ロバート・オリバー中尉だけ連れて「エンタープライズ」に乗艦し出港、1日遅れで出港したフランク・J・フレッチャー少将の第17任務部隊と、ミッドウェー島北東の「ポイント・ラック」と呼ばれた地点で合流、フレッチャー提督指揮の下日本軍迎撃に就いた。この海戦の折、第16任務部隊の幕僚の面々はスプルーアンスの事を航空のキャリアが無い事だけしか知らなかったが、初めての会食の席上「諸君、私は諸君の一人ひとりについて、いささかの不安の念も持っていないということを、先ずはっきりさせておきたい。もし一人でもそうでない人物がいたら、ビル・ハルゼーが君達をこのままにしておくはずがないからだ」と明言して信頼を勝ち得たという。この海戦は太平洋戦争のターニングポイントと捉えられており、スプルーアンスはその立役者と目されている。
1945年1月に真珠湾を出港、ウルシー環礁で指揮権を引き継ぐと硫黄島の戦いを指揮した。
3月14日には沖縄戦(「アイスバーグ作戦」)に向けて出港、3月18日に攻撃を開始した。
8月15日の日本降伏のニュースはグアム島で聞いた。その時満足げな顔はしたが、特に何の感情も示さなかったと息子エドワードは回想している。
1952年1月に駐フィリピン大使に就任、1953年に退任する予定であったが、後に大統領となったドワイト・アイゼンハワーに慰留され延長、1955年まで務めた。
再びペブル・ビーチに戻ると第2の引退生活を送る。1966年に椎間板ヘルニア白内障を患い、後に動脈硬化症を併発する。1969年春に長男エドワードが交通事故死すると精神に異常をきたし認知症のような状態に陥る。1969年12月13日に自宅で死去、83才だった。海軍による葬儀ののち、サンフランシスコのゴールデン・ゲート国立墓地にニミッツターナー両提督の墓と隣り合うように葬られた。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
スプルーアンス (1886-1969) 83歳で死亡。 (一部抜粋しています)
それまで米海軍で無名に近い存在でありながら、ミッドウェーで日本の空母群を全滅させ、太平洋戦争の戦勢を一挙に逆転し、以後、硫黄島マリアナ、沖縄等の作戦の指揮をとったレイモンド・エイムズ・スプルーアンス提督は、戦後、海軍大学長、フィリピン大使を経て、1955年、69で隠退生活にはいった。
穏やかな生活の中に彼は次第に老い、やがて、腰痛、白内障動脈硬化などの老人病に悩みはじめ、そのうち長年の友人と逢っても相手がだれかわからない状態になった。
1969年春、息子の退役海軍大佐エドワードが自動車事故で死んだときも、何度そのことをいっても理解できないようであった。
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ある夜、看護婦に何かいい、看護婦が耳を近づけると、
「私は妻にさようならをいいたいのだ」といった。
これが完全な意味を持った彼の最後の言葉となった。そしてその年12月13日にこの世を去った。

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