じじぃの「人の死にざま_542_山本・五十六」

山本五十六 - あのひと検索 SPYSEE
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聯合艦隊司令長官 山本五十六 ―太平洋戦争70年目の真実―(予告編) 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=rs_ITSMU7ys
プライムニュース 「真珠湾攻撃を検証する “奇襲”の背景と波紋 日米の思惑と誤算とは」 2015年12月8日 BSフジ
【キャスター】秋元優里、反町理 【ゲスト】秦郁彦(現代史家)、柴山哲也(ジャーナリスト)、三浦瑠麗(東京大学政策ビジョン研究センター客員研究員)
日本軍によるハワイへの“奇襲”から8日で74年。この攻撃を機に、日本は太平洋戦争へと突き進んだ。だが、なぜ真珠湾攻撃が行われたのか、なぜ奇襲となったのかなどをめぐり、残された謎も多い。
山本五十六は最後まで対米戦には反対していた。その山本がなぜ先陣をきることになってしまったのか?
柴山哲也、「真珠湾攻撃を発案したのは山本五十六連合艦隊司令長官です。大正11年頃、米国で米西戦争の後ハワイを米国を奪取した。それについて日本が相当抵抗していた。ハワイの日系人が人種差別を受けていたことも頭にあった」
前編:http://www.bsfuji.tv/primenews/movie/index.html?d151208_0
後編:http://www.bsfuji.tv/primenews/movie/index.html?d151208_1
山本五十六 ウィキペディアWikipedia)より
山本五十六は、新潟県出身の大日本帝国海軍の軍人。26、27代連合艦隊司令長官。位階勲等は元帥海軍大将・正三位大勲位・功一級。ソロモン戦線で米軍の攻撃によって戦死するまで太平洋戦争(大東亜戦争)前半の日本海軍の攻勢作戦、中でも真珠湾攻撃ミッドウェー海戦での総指揮に当たったことから海外でも太平洋戦争の日本を代表する提督として広く知られる。
【生涯】
明治17年1884年)、新潟県長岡市で、旧越後長岡藩士・高野貞吉の六男として生まれる。
大正5年(1916年)、海軍大学校を卒業。大正8年(1919年)4月5日にアメリカに駐在、ハーバード大学に留学した。
昭和11年(1936年)に海軍次官に就任。昭和14年(1939年)8月30日、 阿部内閣の発足時に、中将の山本は、連合艦隊司令長官(兼第一艦隊司令長官)に就任する。次官当時からの懸案事項であった日独伊三国軍事同盟に、海軍大臣の米内光政、海軍省軍務局の井上成美らとともに最後まで反対する。この事から海軍条約派三羽鴉とも言われている。航空機による時代の到来を予期し、大和の建造に反対し日米開戦にも反対していた。
また駐在経験もあることからアメリカとの国力の違いも認識しており、昭和15年(1940年)、当時の総理大臣であった近衛文麿の『近衛日記』によると「余は日米戦争の場合、(山本)大将の見込みの如何を問ふた処、それは是非やれと言われれば初め半年や1年の間は随分暴れてご覧に入れる。然しながら、2年3年となれば全く確信は持てぬ。三国条約が出来たのは致方ないが、かくなりし上は日米戦争を回避する様極極力御努力願ひたい」(原文のまま)と発言している。
開戦決定以後は短期決着のため、特に航空機に力を入れる。真珠湾攻撃など、太平洋戦争(大東亜戦争)初期における快進撃により、山本は英雄として扱われる。
昭和17年(1942年)6月、ミッドウェー海戦において、空母4隻と重巡1隻、全艦載機(航空機285機)を喪失する大敗北を喫した。しかし、ミッドウェー海戦の敗北が日本国民に知られるようになったのは敗戦後のことである。
昭和18年(1943年)4月18日、前線視察のため訪れていたブーゲンビル島上空で、アメリカ軍に通信文を傍受されたため乗機一式陸上攻撃機アメリカ陸軍航空隊P-38戦闘機に撃墜され戦死した(海軍甲事件)。遺骨はトラック諸島に一旦運ばれて、その後内地に帰還する戦艦武蔵によって日本本土に運ばれた。

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文藝春秋 2010年1月号 昭和の肉声 いま蘇る時代の蠢動
昭和16年 之が天なり命なりとハなさけなき次第  山本五十六 (一部抜粋しています)
昭和16年10月。太平洋戦争開戦2ヵ月前に、山本五十六海軍兵学校同期で予備役に編入されていた親友、堀悌吉元中将に私的な手紙を書いた。
山本は対米戦争は日本を亡国に導くから避けねばならない、との考えを抱いていたが、世の中の大勢はすでに米英討つべし、と決している。親友にのみ吐露した一個人としての肉声である。
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出発の際は色々ご迷惑をかけ多謝 大船より托送の貴翰(きかん)も落掌
一、留守宅の件適当にご指導乞ふ
二、大勢は既に最悪の場合に陥りたりと認む
山梨大将ではないが之が天なり命なりとハなさけなき次第なるも今さら誰が善いの悪いのと言ったところで始まらぬ話也
独使至尊(天皇)をして社しょくを憂いしむる現状においてハ最後の聖断のみ残され居るも夫れにしても今後の国内は六つかしかるべし
三、個人としての意見と正反対の決意を固め其の方向に一途邁進の外なき現在の立場は誠に変なもの也、之も天命といふものか
四、年度初冬より凡失により重大事故頻発にてやりきれず、祈る御自愛
十月十一日 五十六
堀大兄
山本五十六の遺書ともいうべき「述志」が平成20年の暮れに見つかりましたが、それを保管していたのも堀悌吉でした。大分県立先哲史料館に展示された直筆を見て、胸をうたれました。(半藤)

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
山本五十六(やまもといそろく) (1884-1943) 59歳で死亡。 (一部抜粋しています)
昭和18年4月3日、トラック島泊地の戦艦「武蔵」から、みずから最前線の指揮をとるため、山本はラバウル基地に赴いた。そして4月18日朝6時、バラレ、ショートランド、ブレン各基地を視察激励のため、1式陸攻2機、護衛戦闘機6機をもってラバウルを飛び立った。
1時間半後の7時40分ごろ、高度約3000で、ブーゲンビル島西海岸沿いに飛行中、突如出現したアメリカ空軍ロッキードP38、10数機の攻撃を受けた。
2番機に搭乗していた宇垣纏参謀長の手記を要約すれば、
「・・・・しまった! の考(かんがえ)の外なく室井航空参謀の肩を引き寄せて、長官機を見よ、と指示せり。敵の来襲に機はまた急転して長官機を見失う。水平に帰るももどかしく、次の一瞥に機影すでになく、ジャングル中より黒煙の天に沖(ちゅう)するのを認むるのみ。嗚呼(ああ)万事休す!」
この2番機もまた撃墜された。ただし、それは海上であったので、宇垣参謀長は重傷ながら九死に一生を得た。
双胴のP38機群は、日本軍の暗号解読により、山本司令長官機そのものを狙ってここに待ち受けていたものであった。
この悲報に、ただちにブーゲンビル駐屯の日本軍部隊から捜索隊が出され、19日の夕刻、その1隊が現場を発見した。
ジャングルの中に墜落した1式陸攻は焼けただれ、まわりに死体が散乱していたが、林の中に1個飛び出している飛行機の座席に坐っている1人の将官があった。彼は草色の略服をつけ、白手袋をはめた手で軍刀を握って坐っていたが、近づいてみると下顎部からこめかみへかけて撃ち抜かれて死んでおり、腕時計は7時45分でとまっていた。それが山本五十六であった。
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日本人はこれを壮烈な「機上戦死」として山本を英雄化したが、暗号を解読されて待ち伏せ攻撃を受けて司令長官が戦死するとは、海軍をふくめて日本軍の恥辱でなければならない。

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