じじぃの「人の死にざま_508_セルバンテス」

ミゲル・デ・セルバンテス - あのひと検索 SPYSEE
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CERVANTES Y DONQUIJOTE 動画 YouTube
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DON QUIJOTE DE LA MANCHA (1979) - QUIXOTE 動画 YouTube
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ミゲル・デ・セルバンテス フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
ミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラは、スペインの作家であり、小説『ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』(Don Quijote de la Mancha)の著者として知られる。
【生涯】
セルバンテスは、イダルゴ(下級貴族)の家の次男として生まれる。父は外科医であったため、セルバンテスはコンベルソ(カトリックに改宗したユダヤ教徒)ではないかという研究者もある。
スペイン最盛期の象徴であるレパントの海戦(1571年)において被弾し、左腕の自由を失った後も4年間従軍を続けた。そして本国へと帰還する途中、バルバリア海賊に襲われ捕虜となる。このとき仕官のための推薦状を持っていたことが仇になり、とても払えない巨額の身代金を課され、アルジェで5年間の虜囚生活を送る。この間、捕虜を扇動して4回も脱出を企てるがことごとく失敗。このとき処刑されなかった理由は、推薦状により大物と見られていたためと思われるが、定かではない。三位一体会(キリスト教の慈善団体)によって身請けされ本国に戻ったが、仕官を願うも叶わず、1585年に彼の最初の牧人小説『ラ・ガラテーア』を出版するが、あまり評価されなかった。
その後なんとか徴税吏の仕事に就くが、税金を預けておいた銀行が破産、30倍の追徴金を負債として負うこととなり、これが払えず1597年に投獄される。そのセビーリャの監獄の中には、ピカレスク小説『グスマン・デ・アルファラーチェ』(1559年)の作者マテオ・アレマンもいたという。セルバンテスは『ドン・キホーテ』(1605年)の序文で、牢獄において構想したことをほのめかしている。
ドン・キホーテ』の成功にもかかわらず、版権を安く売り渡していたため、生活は良くならなかった。しかし、その後も創作活動は続き、有名なものに『模範小説集』(1613年)、『ドン・キホーテ 後編』(1615年)、遺作『ペルシーレスとシヒスムンダの苦難』(1617年)などを世に送り出した。1616年、69歳でその波瀾に満ちた人生を終えた。
【影響】
スペイン語による世界的大文学者のひとりとして、同時代および後世に多大な影響を与えた。同時代人のシェイクスピアは『ドン・キホーテ』を読んでいたと言われる。チャールズ・ディケンズギュスターヴ・フローベールハーマン・メルヴィルフョードル・ドストエフスキー、ジェームズ・ジョイスホルヘ・ルイス・ボルヘスらは、影響を受けた文学者たちのうちのほんの一部である。
ドン・キホーテ ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ
本編の主人公。本名アロンソ・キハーナ。もとはラ・マンチャのある村に住む郷士であったが、騎士道物語の読み過ぎで現実と物語の区別がつかなくなり、遍歴の騎士として世の中の不正を正すために旅に出る。自分をとりまく全てを騎士道におきかえて認識して暴れ回り次々とトラブルを巻き起こすが、騎士道に関係しないところではいたって理性的で思慮深い人物。もっとも尊敬する騎士はアマディス・デ・ガウラである。二つ名は「憂い顔の騎士(渋面の騎士)」もしくは「ライオンの騎士」。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
セルバンテス (1547-1616) 69歳で死亡 (一部抜粋しています)
セルバンテスは24歳のとき祖国のスペイン艦隊の一水兵として、当時強大を誇ったトルコ艦隊を撃破した有名なレパントの海戦に、マラリアをおして参加し、左手に負傷して生涯使用不能となった。彼はみずからを称して「レパントの片手ン坊」といった。
しかしその後トルコの海賊船に襲われて捕虜となり、5年にわたる奴隷生活を送ったり、海軍の糧食係の子役人となったり、大変な貧乏の中に何度か牢獄にはいったりしたが、58歳のときに書いた『ドン・キホーテ前編』が当時としては異例の評判を得た。ただし当時のスペインでは、著書は作者の意志とは無関係にどこでも出版できたので、彼はちっとも豊かにならなかった。
それどころか、別の男が勝手に『ドン・キホーテ後編』を書いて出版した。
さすがにセルバンテスは狼狽して、自分の書いた『ドン・キホーテ』の後篇を急いで書き出した。このことがなければ『ドン・キホーテ』は未完のまま終わったかも知れないといわれる。なぜなら、この後篇につけた献辞の日付が1615年10月末日で、その半年後、本が出版された1616年4月13日に、彼はマドリードの自宅で死ぬというきわどい芸当だったからである。
正確な死因は不明。しかし死の数年前から盛んにのどのかわきを訴えているところから、糖尿病にかかっていたらしい。
シェイクスピアと同年同日に死んだという説もあるが、ふつう伝えられるシェイクスピアの死亡年月は旧暦の4月20日で、新暦でいえば5月3日である。セルバンテス新暦の4月23日に死んだのであり。旧暦でいえば4月13日となり、シェイクスピアより10日早く死んだのである。
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ドン・キホーテ』が世界文学史上無視出来ない作品として評価されたのは、しかし19世紀にはいってからのことであった。

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