じじぃの「科学・芸術_677_オスマン帝国・ハプスブルク家との戦争」

The House of Habsburg 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=4tlWHDYKej0
オスマン帝国ハプスブルク家

三十年戦争の原因
三十年戦争は、1620年から1648年にかけて、主にドイツとチェコを主戦場として戦われた戦争です。
この戦いにかかわった国や諸侯の数は、実に66を数えました。参加国数だけを見るなら、文字通り、人類が初めて体験する「世界大戦」だったのです。この血みどろの国際紛争の結果、ドイツとチェコの人口は戦前の2/3にまで激減し、主戦場となったドイツの近代化は、100年以上も遅れたと言われています。
ところが、15世紀末から17世紀初頭にかけての神聖ローマ帝国は、オーストリアに本拠地を持つハプスブルク家がその皇帝位を世襲するようになっていました。その理由は、バルカン半島から攻め上がるオスマントルコの脅威に対抗するため、東欧と中欧が確固とした指揮命令系統の下に団結する必要があったからです。そのリーダーとしてもっともふさわしかったのが、ハプスブルク家だったのです。
http://www.t3.rim.or.jp/~miukun/30yearswar1.htm
オスマン帝国500年の平和 (興亡の世界史)』 林佳世子/著 講談社 2008年発行
オスマン官人たちの時代――1560〜1680 より
オスマン帝国は、大宰相ソコッル・メフメト・パシャ(1506-1579)のもとでスレイマン1世後も軍事的優位を維持していた。その成功は、主に地中海でもたらされた。1570年、オスマン海軍は長年の懸案であったヴェネツィアキプロス島への攻撃を開始し、翌年、その征服を果たした。この結果、イスタンブールとエジプトの間の航路の安全が確保された。
これに対し、ヴェネツィアローマ教皇ハプスブルク家スペインと連合し、キプロスの奪還を目指した。同海軍の決戦は1571年10月ペロポネソス半島に近いレパントの沖で始まった。有能な連合艦隊の指揮官ドン・フアン・デ・アウストリアに対し、オスマン側は経験の浅い指揮官が率い、ほぼ全船が沈められるか拿捕(だほ)されるという惨敗を喫した。しかし、連合した3つのヨーロッパ勢力のその後の足並みはそろわず、次の手を打つことができなかった。一方、オスマン帝国は冬の間に艦隊を再建し、翌夏には、失った以上の数の艦隊を地中海に送り込んだ。
これを受け、ヴェネツィアは73年にオスマン帝国と和約を結び、キプロスを放棄したうえ、30万金貨の貢納金を払うことに同意せざるをえなかった。一連の戦いがキプロスの領有をめぐってのものであったことを考えれば、勝利したのはオスマン帝国の側だった。西地中海でも、1573年にスペインの無敵艦隊によって奪われたチェニスを、新建造の艦隊で74年に奪還した。地中海でのオスマン帝国の覇権は続いていた。
しかし、このレパントの海戦の勝利が、宗教戦争で分断されていたヨーロッパの人々を勇気づける事件だったことは疑いない。共通の敵「トルコ」を破ったことをすべての勢力が一緒に祝うことができたからである。スペインからイタリアに渡っていたセルバンテスがこの海戦に参加し、片腕を失いつつも、これを誇りにして生きた逸話はよく知られている。セルバンテスは帰国の途中、西地中海で海賊の捕虜となり、解放までの5年間、そこでも苦労している。
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1580年代に入ると、オスマン帝国は深刻な財政危機に陥った。はじめて年間の収支が赤字になったのは1581年のことである。その後、ハプスブルク家との「長期戦争」が続いた1590年代には膨大な赤字を記録している。この事態に直面し、政府、とくに財務系の書記たちは、財政立て直しのための諸策を立てその実施に奔走した。
赤字の原因は2つあった。1つは、戦費を中心とした支出の増大である。前述のように、「長期戦争」は、オスマン帝国に戦術と軍の編制の変更を迫った。歩兵を中心とし、大砲、鉄砲の火器を大量に投入する戦争に変ったのである。戦闘も短時間の会戦ではなく長期にわたる攻城戦が中心になった。イェニチェリ(常備歩兵軍団)は増員され、農民出身の非正規兵から成る歩兵軍も編制された。財政を圧迫した第1の要因は、こうした変化に伴う戦費の増大だった。
第2の原因は、インフレが進行し、物価が上昇したためだった。その原因やメカニズムには、不明な点が多いものの、ペルーやメキシコなど新大陸からヨーロッパにもたらされた銀が物価の変動を引き起こしたことは、広く認められている。ただし、その影響の範囲や程度については議論があり、ヨーロッパ全体が同じプロセスを経験したといえるほど単純ではなかったようだ。ボスフォラス海峡が凍結するほどに寒冷化した16世紀後半以後の気候変動も、オスマン帝国の農業と経済に影響を与えたと思われる。
こうした複合的な要因から、オスマン帝国は赤字に転落した。はじめての事態に当初は有効な手が打てず、1589年、政府は当面の方策として、銀の含有量を減らした銀貨を市場に出した。軍隊に俸給を払うためである。しかし、この新銀貨で俸給を支払われた常備軍騎馬兵団の間で不満が高まり、イスタンブールで大規模な暴動が発生した。この暴動では、ルメリ州の州軍政官と財務長官の首が求められ、スルタンはやむをえずそれに応じた。