じじぃの「歴史・思想_158_ホモ・デウス・自由意志」

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ホモ・デウス 下: テクノロジーとサピエンスの未来 2018/9/20 ユヴァル・ノア・ハラリ (著), 柴田裕之 (翻訳) Amazon

世界1200万部突破の『サピエンス全史』著者が戦慄の未来を予言する! 『サピエンス全史』は私たちがどこからやってきたのかを示した。『ホモ・デウス』は私たちがどこへ向かうのかを示す。
全世界1200万部突破の『サピエンス全史』の著者が描く、衝撃の未来!
【下巻目次】
第2部 ホモ・サピエンスが世界に意味を与える
第8章 研究室の時限爆弾
どの自己が私なのか?/人生の意味

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『ホモ・デウス(下) テクノロジーとサピエンスの未来』

ユヴァル・ノア・ハラリ/著、柴田裕之/訳 河出書房新社 2018年発行

研究室の時限爆弾 より

2016年の世界は、個人主義と人権と民主主義と自由市場という自由主義のパッケージに支配されている。とはいえ、21世紀の科学は、自由主義の秩序の土台を崩しつつある。科学は価値にまつわる疑問には対処しないので、自由主義者が平等よりも自由を高く評価するのが正しいのかどうか、あるいは、集団よりも個人を高く評価するのが正しいのかどうかは判断できない。一方、自由主義も他のあらゆる宗教と同じで、抽象的な倫理的判断だけではなく、自らが事実に関する言明と信じるものにも基づいている。そして、そうした事実に関する言明は、厳密な科学的精査にはとうてい耐えられないのだ。
自由主義者が個人の自由をこれほど重視するのは、人間には自由意志があると信じているからだ・自由主義によれば、有権者や消費者の決定は、必然的に規定されている決定論的なものでもランダムなものでもないという。人はもちろん外部の力や偶然の出来事の影響を受けるが、けっきょくは、一人ひとりが自由という魔法の杖を振るって、物事を自分で決められる。だから自由主義者有権者や消費者にこれほどの重要性を与え、心の命じるままに従い、良いと感じられることをするように指示する。森羅万象に意味を与えるのは私たちの自由意志であり、個人は私たちが本当はどう感じているかを知ったり、何を選ぶかを確実に予測したりすることはできないので、ビッグ・ブラザー[訳注 ジョージ・オーウェルの『一九ハ四年』に登場する全体主義国家の独裁者]の類に頼って、自分の関心や欲望の面倒を見てもらおうなどとするべきではない。

人生の意味

物語る自己は、ホルヘ・ルイス・ボルヘスへの短編「問題」のスターだ。この小説は、ミゲル・デ・セルバンテスの有名な小説の題名の由来となったドン・キホーテにかかわる。ドン・キホーテは自分の空想の世界を創り出し、その中で世の不正を正す伝説の騎士となり、巨人たちと戦ってドゥルシネーア・デル・トボーソという姫を救うために出かけていく。現実には、ドン・キホーテアロンソ・キハーノという年寄りの騎士で、高貴なドゥルシネーアは近くの村に住む粗野な農民の娘であり、巨人たちというのは風車だ。もしこうした空想を信じているせいでドン・キホーテが本物の人間を襲って殺してしまったらどうなるだろう。とボルヘスは考える。人間の境遇についての根本的な疑問をボルヘスは投げかける。私たちの物語る自己が紡ぐ作り話が自分自身あるいは周囲の人々に重大な害を与えるときには何がおこるのか? 主な可能性は3つある、ボルヘスは言う。
たいしたことは起こらないというのが第1の可能性だ。ドン・キホーテは本物の人間を殺してもまったく気にしない。妄想の力がまさに圧倒的で、彼は現実に殺人を犯すことと、空想の巨人(じつは風車)と決闘することの違いがわからない。別の可能性もある。ドン・キホーテは人を殺(あや)めた後、途方もない戦慄(せんりつ)を怯え、その衝撃で妄想から目覚める。これは、若い新兵が祖国のために死ぬのは善いことだと信じて戦場に出たものの、けっきょく戦争の実情を目の当たりにしてすっかり幻滅するというのと同じ類だ。
だが、第3の、はるかに複雑で深刻な可能性もある。空想の巨人と戦っているかぎりは、ドン・キホーテは真似事をしていたにすぎない。ところが彼は、誰かを本当に殺したら、自分の空想に必死にしがみつく。自分の悲惨な悪行に意味を与えられるのは、その空想だけだからだ。矛盾するようだが、私たちは空想の物語のための犠牲を払えば払うほど執拗にその物語にしがみつく。その犠牲と自分が引き起こした苦しみに、ぜがひでも意味を与えたいからだ。
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それならば、人生の意味とは何なのか? 何か外部の存在に規制の意味を提供してもらうことを期待するべきではないと自由主義は主張する。個々の有権者や消費者が自分の自由意志を使って自分の人生ばかりではなくこの世界全体の意味を生み出すべきなのだ。
ところが生命科学自由主義を切り崩し、自由な個人と言うには生化学的アルゴリズムの集合によってでっち上げられた虚構の物語にすぎないと主張する。脳の生化学的なメカニズムは刻々と瞬間的な経験を創り出すが、それはたちまち消えてなくなる。こうして、次から次へと瞬間的な経験が現れては消えていく。こうした束の間の経験が積み重なって永続的な本質になることはない。物語る自己は、はてしない物語を紡ぐことによって、この混乱状態に秩序をもたらそうとする。その物語の中では、そうした経験は1つ残らず占めるべき場所を与えられ、その結果、どの経験も何らかの永続的な意味を持つ。だが、どれほど説得力があって魅力的だとしても、この物語は虚構だ。中世の十字軍戦士たちは、神と天国が彼らの人生に意味を与えてくれると信じていた。現代の自由主義者たちは、個人の自由な選択が人生に意味を与えられると信じている。だが、そのどちらも同じように、妄想にすぎない。
自由意志と個人が存在するのかという疑問は、むろん新しいものではない。2000年以上前に、インドや中国やギリシャの思想家たちは、「個人の自己は幻想である」と主張した。とはいえ、そのような疑念は、経済や政治や日常生活に実際的な影響を及ぼさないかぎり、歴史をたいして変えることはない。人間は認知的不協和の扱いの達人で、研究室ではある事柄を信じ、法廷あるいは議会ではまったく違う事柄を信じるなどということを平気でやる。ダーウィンが『種の起源』を刊行した日にキリスト教が消えはしなかったのとちょうど同じで、自由な個人など存在しないという結論に科学者たちが達したからというだけで自由主義が消え失せることはない。
それどころか、リチャード・ドーキンスやスティーブン・ビンカーら、新しい科学的世界観の擁護者たちでさえ、自由主義を放棄することを拒んでいる。彼らは自己と意志の自由の解体のために学識に満ちた文章を何百ページ分も捧げた後で、息を呑むような180度方向転換の知的宙返りを見せ、奇跡のように18世紀に逆戻りして着地する。まるで進化生物学と脳科学の驚くべき発見のすべてが、ロックとルソーとジェファーソンの倫理的概念や政治的概念にはいっさい無関係であるかのようだ。
ところが、異端の科学的見識が日常のテクノロジーや毎日の決まりきった活動や経済構造に転換されると、この二重のゲームを続けるのはしだいに難しくなり、おそらく私たち(あるいは私たちの後継者)には、宗教的信念と政治制度のまったく新しいパッケージが必要になるだろう。3000年紀の始まりにあたる今、自由主義は、「自由な個人などいない」という哲学的な考えによってではなく、むしろ具体的なテクノロジーによって脅かされている。私たちは、個々の人間に自由意志などまったく許さない、はなはだ有用な装置や構造の洪水に直面しようとしている。民主主義と自由市場と人権は、この洪水を生き延びられるだろうか?