じじぃの「人の死にざま_1346_文倉・平次郎」

咸臨丸

咸臨丸 子孫の会

幕末軍艦咸臨丸 文倉平次郎/著

fumikura 文倉平次郎
東京生まれ。仕立屋の息子。一時期日本人福音会の書記をつとめる。1898(明治31)年、咸臨丸水夫の墓を発見したのを契機に、咸臨丸の研究家として、「幕末軍艦咸臨丸」を著す。
時の領事、陸奥広吉(陸奥宗光の子)や木村芥舟と懇意。赤羽根忠右衛門に働きかけ、咸臨丸水夫の墓整備に尽力。これらは現在でもコルマの日本人墓地の中心にある。
http://www.geocities.co.jp/HeartLand/8808/PROFILES/FUMIKURA.HTM
『十六の話』 司馬遼太郎/著 中央公論社 1993年発行
ある情熱 (一部抜粋しています)
文倉平次郎という人物の名は、百科事典にも人名事典にものっていない。生涯でただ1冊の本を書いたひとが、その社会的立場を表現する肩書としては古河鉱業の社員というにすぎず、学者でも文筆家でもない。
「著者文倉平次郎氏は生粋の江戸人なり」
と、そのただ1冊の著作の序文に紹介されている。それによれば日本橋の魚問屋の子としてうまれたというから、歯切れのいい下町言葉をつかった人であろう。洋服屋に養子に行ったという。その養父は明治のはじめ東京ではじめて洋服屋を開業したひとである。平次郎は明治10年代に渡米してサンフランシスコに10数年いたというから、渡米の目的は洋服つくりの修業であったようにおもわれる。平次郎はその著書のなかで自分のことをほとんど語っていないが、ある時期、同市のワシントン街の日本人福音会の書記をしていた、とう記述がある(この福音会の事務所は、はじめシナ人教会の地下に間借りしていた)。いずれにせよ、文倉平次郎がこの街にいたころ、同市のローレル・ヒルの草のなかにうずもれていた幕府軍艦咸臨丸の乗組水夫の墓を発見したことが、かれの生涯の情熱の出発点になった。墓は2基あり、峯吉、富蔵とそれぞれきざまれていた。翌年、「源之助」と刻まれた墓も発見した。
「源之助」発見のときは偶然ではなかった。この人はさきに「峯吉」と「富蔵」を発見したあと、咸臨丸渡米の資料をしらべるために当時ヴァンネス・アベニューにあった商業図書館にかよっているうち、同館乗務員で渡米中に病死した者は3人あるということを知り、あと1人、墓がならねばならないと気づいた。これをしらべるため墓地ローレル・ヒルの管理事務所のボーイにやとわれたりした。その管理事務所の戸棚からふるい埋葬記録をさがしだし、たんねんに繰っているうち、1860年の原簿に、
 Gin-no-ski "Kan・Din・Marro's Sailor"
というのが出てきた。
それに勇気づけられ、墓地丘陵のあちこちをさがし、やがて西の奥のやや低いところにわずかに頭だけ地面に出している墓碑をみつけ、木片をひろってきて30分ばかり砂土をほりさげた。やがて碑面に源という文字があらわれ出た。
明治31年5月27日午後4時頃のことであった」
と、文倉平次郎はよほど感動したのか、源の字が出た日時を書きとめている。この日時は同時に、咸臨丸というものが平次郎にとり憑いた記念すべき時間だったのであろう。
     ・
ついでながら咸臨丸水夫のほとんどは、瀬戸内海の塩飽(しあく)諸島から採用された。この諸島は中世を通じて海賊の根拠地であり、源平合戦にも出、倭寇のさかんなころはときに数百の船団を組んで東シナ海に漕ぎだし、秀吉の朝鮮ノ陣にも水軍として出役しており、江戸期でも航海術にかけては「他州のおよぶところあらず」といわれていた。
文倉平次郎は咸臨丸研究に着手してから30数余年をへた昭和8年の春、水夫の遺族をさがすために長崎と塩飽諸島に出かけている。当時の写真でうかがうと、背広のよく似合う老紳士で、髪が白い。長崎でしらべてやっと西泊という海岸の村に「辰蔵」という者の遺子井手嘉吉という老人が存命していることを知り、大波止から舟で渡って訪ねた。
来意をつげると、嘉吉老人はにわかに顔をおおって泣きだしたという。文倉平次郎が想像するに、幼時の境遇の悲惨さをおもいだして老人はたまらなくなったのであろう。
「西泊の辰蔵は」
と、老人は語った。
「子供のときから船乗渡世で、とても教育などをうけた男ではない。私がうまれたときも、辰蔵は海にいた。父子などは知らずにすごした。辰蔵は安政6年11月ごろには友達の百太郎や栄吉などと一緒に咸臨丸にやとわれていたらしい。翌年日本を出帆して米国へ渡ったときいたが、その後音信不通で、私の3歳のとき文久元年8月、突如家へ帰って帯解の式をしてくれた。しかしそのまま家を出たきり、ついに帰らなかった」
塩飽諸島でも何軒かを訪問し、水夫のひとりである「信次郎」の写真を発見した。チョンまげ頭に和服の筒袖を着。腰から下はモモヒキをうがち、脇差を一本帯びている。これによって水夫の服装を知った。