じじぃの「人の死にざま_744_大岡・越」

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大岡忠相 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
【人物】
8代将軍・徳川吉宗が進めた享保の改革町奉行として支え、江戸の市中行政に携わったほか、評定所一座に加わり、地方御用や寺社奉行を務めた。越前守だったことと『大岡政談』や時代劇での名奉行としてイメージを通じて、現在では大岡越前として知られている。通称は求馬、のち市十郎、忠右衛門。諱は忠義、のち忠相。
【大岡政談】
忠相の江戸町奉行時代の裁判の見事さや、江戸の市中行政のほか地方御用を務め広く知名度のあった忠相が庶民の間で名奉行、人情味あふれる庶民の味方として認識され、庶民文化の興隆期であったことも重なり、同時代から後年にかけて創作「大岡政談」として写本や講談で人々に広がった。「徳川天一坊」、「村井長庵」、「越後伝吉」、「畔倉重四郎」、「後藤半四郎」、「小間物屋彦兵衛」、「煙草屋喜八」、「縛られ地蔵」、五貫裁き、「三方一両損」などがある。これらは日本におけるサスペンス小説の原初的形態を示すものと言える。忠相の没後から講釈師による原型が作られると、幕末から明治にかけて発展し、歌舞伎などの素材などにも使われた。
史学的検証では、数ある物語のうち忠相が町奉行時代に実際に裁いたのは享保12年(1727年)の「白子屋お熊事件」のみであることが指摘されている。現代に「大岡裁き」として伝えられているものの多くは、関東郡代や忠相の同僚など他の奉行の裁定したものや忠相没後の事件も含まれている。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
大岡越前守(おおおかえちぜんのかみ) (1677-1751) 74歳で死亡 (一部抜粋しています)
いわゆる「大岡政談」はすべてフィクションだが、大岡越前守忠相(ただすけ)が吉宗に最も信頼された名官僚であったことにまちがいはない。
彼は、19年間に及ぶ町奉行、16年間――死ぬ年までの――寺社奉行等の公務に、精励かつ正確無比な仕事ぶりを見せたが、身体も丈夫でほとんど休むということがなかった。日記によると、稀に「腹具合悪敷(あしく)候二付」休んでいるが、それも2日とはつづけて休んでいない。
とはいえ、66歳のとき、ギックリ腰ではじめて8日間休み、同年から痔にかかっている。さらに73歳の春ごろから、腹痛、喉、めまいなどに悩まされるようになった。
そして、元来壮健な彼も、翌年の寛永4年6月20日、吉宗が死ぬと、その葬儀委員長はつとめたが、以後気落ちしたとみえて、6ヵ月後の宝暦元年12月19日、吉宗のあとを追うように死んだ。
彼は有能な政策官僚であったとはいうものの、「大岡政談」のごとく血あり、涙あり、機智に富んだ、特に面白いというお奉行さまではなかったが、ほとんど偶然のように名奉行の伝説の主人公に祭りあげられた。庶民の歴史には、特に、たとえば吉良上野介のように運の悪い人物を作り出すこともあれば、逆にこういう幸運児を作り出すこともある。

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