じじぃの「人の死にざま_1002_本多・正信」

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本多正信 ウィキペディアWikipedia)より
本多正信は、戦国時代から江戸時代前期の武将・大名。徳川家康重臣で、江戸幕府の老中。相模国玉縄藩主。正信系本多家宗家初代。 本姓は藤原氏
【初期幕政を牛耳る】
慶長6年(1601年)からは、家康が将軍職に就任するために朝廷との交渉で尽力したといわれる。更にこの頃、本願寺では前法主教如法主准如の兄弟が対立していたため、これを利用して、本願寺の分裂を促すことを家康に献策。かつて自らも身を投じていた本願寺の勢力を弱めさせた。慶長8年(1603年)に家康が将軍職に就任して江戸幕府を開設すると、家康の側近として幕政を実際に主導するようになった。慶長10年(1605年)に家康が隠居して大御所となり、秀忠が第2代将軍になると、正信は江戸にある秀忠の顧問的立場として幕政を主導し、慶長12年(1607年)からは秀忠付の年寄(老中)にまでのし上がった。
しかしあまりに権勢を得たことは本多忠勝、大久保忠隣ら武功派の不満を買うことにもつながり、幕府内は正信の吏僚派と忠隣の武功派に分かれて権力抗争を繰り返すようになる。しかし家康の正信に対する信任が変わることは無く、慶長15年(1610年)には年寄衆からさらに特別待遇を受けて大老のような地位にまで昇進している。また、慶長17年(1612年)の岡本大八事件で一時的に武功派の巻き返しを受けたが、慶長18年(1613年)の大久保長安事件で大久保長安一党らを失脚させ、慶長19年(1614年)には政敵・大久保忠隣らを失脚させるなど、大きな権力を振るった。

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『江戸奇人・稀才事典』 祖田浩一/編集 東京堂出版 1992年発行
加増を断り、清廉を旨とする――家康も一目おいた智恵者 (一部抜粋しています)
本多正信(ほんだまさのぶ、天文7年(1538)〜元和2年(1616))
徳川家康本多正信に信頼を寄せ、あらゆる相談を持ちかけた。
正信は常に多くを言わなかった。言葉身近に諷刺めいた言い方をするだけであった。そういう形でもすべて通じたのである。家康は正信に友達のように接した。家康と正信が激しく意見をたたかわせるよおうな場面は、まず見うけられなかった。
特に言葉で確かめ合ったり、方策をめぐって意見の交換をしなくても、以心伝心で、正信には家康の胸の内がすべてわかった。家康に対して正信が一言二言いったことが、第三者にはどういう意味なのか、さっぱり判らなくても、家康だけには伝わっていた。
大切な事柄で、家康の言うことに賛成しかねる時は、正信は居眠りしている風を装い、家康もそれを見て判断の手がかりとした。
正信は家康より4歳年上であった。あらゆる人間は次々と欲望を募らせていって、出来る限りそれを満たそうとした。正信はそれをしなかった。柳沢吉保田沼意次酒井忠清らは加増されることに甘んじ、どこまでも欲望をふくらませ、はばからず財力の増大化につとめた。
正信は、家康が加増しようといっても固く断わり、生涯2万2千石止まりであった。柳沢吉保などは530石からはじまって、15万石にふくらんでいる。時代が異なるとはいえ、正信ほどの地位にあった者が2万2千石は、いかにも少ない。
加増を断わるとき、正信は言った。
「家計が裕福であるとは言えませんが、それほど貧しいわけではありません。食うに困ってはおりません。わたしは戦場で功名をあげておりませんし、齢(よわい)もすでに傾きかけております。わたしは賜わる分があれば、一人でも多くの武士をやしない、軍国の備えとされたがよいのです。わたしは今のままで、苦しく思うどころか、大殿(家康)の御恩に感謝しています」
正信とても欲しくないことはない。人並に欲しい。しかし、分をわきまえるということが、身を持することであると思っていた。欲望を募らせ、加増に甘んじれば、必ずつまづきのもとになる。人間はそれだけ弱く、もろいものだ。家康はそういう寡欲さを好んだ。
正信は他人にまでも、禄の多さを望むべくではないと説いた。関ヶ原戦のあと、功賞として加藤嘉明に家康は50万石を与えようとした。正信は、それほど与えることはないと言って、やめさせた。
嘉明はこのことをひそかに伝え聞いて、加藤嘉明を怨みの思った。正信は嘉明のところに出向いて行って、「内府(家康)はそなたに大国を賜わろうとしたが、わしが口をはさんで止めにした。そなたは豊臣家の恩を受けた人で、周りにはいささか疑いをかけている人も居る。その上に、大国を領したりすれば、必ず禍が起こると思ったからだ」と告げた。嘉明の怨みがそれで消えたわけではなかった。
正信は子の正純に対しても言った。
「わしが亡くなれば、必ずおまえに対して加増があるだろう。3万石まではお受けしてもよいが、それ以上は決して受けてはならない。もし増封をそのまま受ければ、必ず禍いとなるから心せよ」
結果は、正信の憂いた通りになってしまった。正信ほど、「加増を断われ」と説いた者は珍しい。これは言葉をかえれば、「調子に乗ってはいけない」ということである。人間は弱いものであるから、加増されたりすれば、すぐに増長する。調子に乗って、さらに欲望を募らせるから破滅につながる。辞退して、加増してやろうという気持ちだけを大事に頂くべきだ、と言っているのだと思う。
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正信は倹約家で、自分の住まいなどは見苦しいほどであった。着物は丹後袖に似たものを用いていたが、蒲団や炬燵掛(こたつがけ)などは木綿で、鞘留などは紙縄で万事が構わぬふうに徹していた。
家康が駿府に住みはじめ、しばらく倹約を励行しようと考え、正信に奉行を命じた。
正信は、次の年の正月に門松を例年よりも大きなのを立て、正月3日の謡い初(うたいぞ)めの時には太い蝋燭を立てさせた。家康は正信を読んで、「かねがね倹約を申しつけているのに、あの松や蝋燭はどうしたことだ」と訊ねた。
正信は、「このように改まった時に、気持ちよくなるようにするために、日常は倹約につとめているのではありませんか」と言った。家康は、「なるほど、それが佐渡(正信)のやり方か」と言い、黙ってしまった。
正信は3年間の倹約で、見事に金銀と米を蔵に貯えて見せた。

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