じじぃの「人の死にざま_709_千姫」

千姫 - あのひと検索 SPYSEE
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千姫無情 川村佳楓 senhime mujyou 動画 YouTube
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千姫行列 動画 YouTube
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千姫 天樹院
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千姫 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
千姫は、安土桃山時代から江戸時代の女性。豊臣秀頼本多忠刻正室。父は徳川秀忠、母は継室の江。号は天樹院。祖母は西郷局、母方の祖父は浅井長政。伯母は淀殿(秀頼生母)、常高院京極高次正室)。叔父は松平忠吉(秀忠の同母弟)。
【生涯】
慶長2年(1597年)4月11日、秀忠と江の長女として、山城国伏見城内の徳川屋敷で産まれる。慶長8年(1603年)に7歳で秀頼と結婚し、乳母の刑部卿局とともに大坂城に入る。秀頼とは従兄妹にあたるが、たいへん夫婦仲睦まじかったという。慶長20年(1615年)19歳の時、大坂夏の陣では、祖父である徳川家康の命により落城する大坂城から救出される。その後、秀頼と側室の間の娘奈阿姫(天秀尼)が処刑されそうになった時に千姫は彼女を自らの養女にして命を助ける。
元和2年(1616年)、桑名藩主本多忠政の嫡男・本多忠刻と結婚。この時、津和野藩主坂崎直盛が輿入れの行列を襲って千姫を強奪する計画を立てていることが発覚し、直盛は自害(もしくは家臣により殺害)、坂崎氏は改易処分となった(千姫事件)。
同年9月26日に桑名城に着いた。この時に10万石の化粧料を与えられたといわれる。翌年の元和3年(1617年)、本多家が播磨姫路に移封になった時には8月28日に桑名を発って姫路城に移って播磨姫君と呼ばれるようになる。夫・忠刻とも夫婦仲睦まじく、翌元和4年(1618年)には長女・勝姫(池田光政正室、池田綱政生母)、元和5年(1619年)には長男・幸千代が生まれるが、元和7年(1621年)に幸千代が3歳で没したのを始め、寛永3年(1626年)には夫・忠刻、姑・熊姫、母・江が次々と没するなど不幸が続き、本多家を娘・勝姫と共に出て江戸城に入り、出家して天樹院と号す。出家後は娘と2人で竹橋の邸で暮らす。寛永5年(1628年)に勝姫は父・秀忠の養女として池田光政の元へ嫁ぎ、一人暮らしとなる。池田家に嫁いだ一人娘のことを心配し、「天樹院書状」を送っている。寛永9年(1632年)、父・秀忠死去。寛永16年(1639年)、光政と勝姫の嫡男・池田綱政(千姫の外孫)が誕生した。
寛永20年(1643年)、鎌倉の東慶寺の伽藍を再建する。正保元年(1644年)には迷信を避ける為に江戸城から移った弟・家光の側室・夏(後の順性院)とその後生まれた家光の三男・綱重と暮らすようになる。このことで大奥で大きな権力を持つようになったとされる。
寛文6年(1666年)、江戸で死去。

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大河ドラマ江〜姫たちの戦国〜」|江を読む  NHK
慶長8年(1603)7月28日、日本中が注目するビッグカップルが誕生しました。新郎は、日本統一を成し遂げた元関白・豊臣秀吉の忘れ形見、秀頼11歳。新婦は、征夷大将軍に任じられた徳川家康の孫で、江と秀忠の長女、千姫7歳。現代日本では考えられない“ままごと”のような夫婦の誕生です。しかし、その裏では、大人の事情が複雑に交錯。今後の政権運営をめぐり、豊臣家と徳川家の間で巧妙な駆け引きが行われていました。今回は、江の娘・千姫の輿入れについて少し解説します。
http://www9.nhk.or.jp/go/story/gom37.html
『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
千姫(せんひめ) (1597-1666) 69歳で死亡。 (一部抜粋しています)
慶長8年7歳のとき、祖父家安の政略によって4歳年上の豊臣秀頼に嫁(とつ)いだ千姫は、12年後の元和元年5月1日、燃える大阪城から坂崎出羽守らの手で救い出された。ときに彼女は18歳であった。
翌年の10月、千姫は、徳川四天王とうたわれた本多平八郎忠勝の孫忠刻のもとへ再嫁し、姫路に住んだ。10年後忠刻も病死した。ときに彼女は29歳であった。
以後千姫江戸城内の竹橋御殿に住んだ。将軍家光もこの悲劇に姉を手厚く遇したという。そして40年の静かな生活ののち、寛文6年2月6日――世はすでに4代将軍家綱の時代になっていた――この世を去った。
千姫についていわゆる良しが御殿の妖譚(ようたん)が生まれたのは、竹橋御殿の家老が吉田修理介という者であったことと、安芸(あき)の吉田(毛利元就発祥の地)に「吉田通れば2階からまねくしかも鹿(か)の子の振袖が」という俗謡があったこと、また彼女の2人の夫が若くして死に、さらに坂崎出羽守の事件があったため、「男を殺す女」という無責任なレッテルが貼られたこと、などがからみあって発生した俗説である。
千姫の前半生の波瀾(はらん)は、姑(しゅうとめ)の淀君とはちがって受身の悲劇であった。その上こんなあらぬ俗説のヒロインにされては間尺に会わないが、しかしその代わりいまに残る姫路城の「千姫の化粧櫓(やぐら)」の美しさは、彼女をも幻想的に美姫化してしまった。

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