じじぃの「人の死にざま_667_伊達・正宗」

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戦国バサラ2 英雄外伝 伊達政宗vs真田幸村 動画 YouTube
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大坂夏の陣 激戦 動画 YouTube
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伊達正宗 ウィキペディアWikipedia)より
伊達政宗は、戦国時代の武将。出羽国羽州)と陸奥国(奥州)の戦国大名陸奥仙台藩の初代藩主。
本姓は藤原氏。家系は伊達朝宗を祖とする伊達氏。第16代当主・伊達輝宗と最上義守の娘・義姫(最上義光の妹)の嫡男。幼名は梵天丸、字は藤次郎、諡号は貞山。神号は武振彦命で、青葉神社に祀られる。
後世には幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し隻眼となったことから「独眼竜」等と称されている。他に「東北王」や「奥州の龍」とも。
【生涯】
伊達政宗は、出羽国米沢城で生まれた。 天正5年(1577年)に元服する。
政宗は、天正16年(1588年)に郡山合戦にて相手国の領土を奪う。正妻・愛姫の実家・田村氏の協力を得て、現在の福島県中通り中部にあたる地域まで支配下に置く。
関白・豊臣秀吉は関東・東北の諸大名、特に関東の北条氏と東北の伊達氏に対して、惣無事令(私戦禁止令)を発令した。しかし、政宗は秀吉の命令を無視して戦争を続行した。
政宗は現在の福島県中通り地方と会津地方、及び山形県の南部、宮城県の南部を領し全国的にも屈指の領国規模を築いた。これに加え上述の白河氏といった南陸奥の諸豪族や、また今の宮城県岩手県の一部を支配していた大崎氏・葛西氏も政宗の勢力下にあった。
慶長6年(1601年)には仙台城仙台城下町の建設を始め、居城を移す。ここに、伊達政宗を藩祖とする仙台藩が誕生した。石高62万石は加賀・前田氏、薩摩・島津氏に次ぐ全国第3位である。  徳川氏から松平の名字を与えられ、「松平陸奥守」と称した。
慶長19年(1614年)の大坂の役(冬の陣)では大和口方面軍として布陣した。和議成立後、伊達軍は外堀埋め立て工事の任にあたる。その年の12月、将軍秀忠より伊予宇和郡に領地を賜る。翌年、慶長20年(1615年)の大坂の役(夏の陣)道明寺の戦いでは後藤基次らと戦った。基次は伊達家家中・片倉重長の攻撃を受けて負傷し自刃したといわれる。道明寺口の要衝小松山に布陣をする後藤隊を壊滅させた大和方面軍は誉田村に兵を進めるが、ここで伊達隊は真田信繁(幸村)の反撃を受けて後退を余儀なくされた。これに対し先鋒大将の水野勝成政宗に真田隊への再攻撃を再三に渡り要請するが、政宗は弾薬の不足や兵の負傷などを理由にこれを悉く拒否し、最後は政宗自ら勝成の陣に赴き要請を断った。このため信繁は悠々と大坂城に引き返し「関東勢百万と候えど、漢たるは一人も無きに見えにし候」(「関東武者は100万あっても、男と呼べる者は誰一人として居ない」)と嘲笑したという。
戦後、徳川家康の論功行賞により南海道伊予国の内で10万石が加増された。政宗は庶長子である伊達秀宗にそれを全部与え仙台藩から分家独立させる。秀宗は宇和島藩初代藩主となった。
世情が落ち着いてからは、もっぱら領国の開発に力を入れ、後に貞山堀と呼ばれる運河を整備した。北上川水系の流域を整理し開拓、現代まで続く穀倉地帯とした。この結果、仙台藩は表高62万石に対し、実高100万石を越える米の生産量を確保した。文化的には上方の文化を積極的に導入し、技師・大工らの招聘を行い、桃山文化に特徴的な荘厳華麗さに北国の特性が加わった様式を生み出し、国宝の大崎八幡宮瑞巌寺、また鹽竈神社陸奥国分寺薬師堂などの建造物を残した。
寛永13年(1636年)正月頃から食事が喉につかえるといった体調不良を訴え始める。
5月24日早朝死去。享年70。死因はガン性腹膜炎あるいは食道ガン(食道噴門ガン)と推定されている。「伊達男」の名にふさわしく、臨終の際、妻子にも死に顔を見せない心意気であったという。

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歴史秘話ヒストリア 「激突!真田幸村VS.伊達政宗 〜めぐりあい大坂夏の陣〜」 2011年5月19日 NHK
【語り】渡邊あゆみ
赤い鎧(よろい)の“徳川の天敵”真田幸村、黒い鎧の“独眼竜”伊達政宗。同年代の戦国武将が一度だけ直接対決したのが、徳川・豊臣の最終決戦「大坂夏の陣」でした。徳川方の一大勢力として大坂城に迫る政宗。決死の覚悟でこれに切り込む幸村。赤と黒の軍団が激突した決戦の行方は?幸村が政宗に託したものとは?命を賭けて美学を貫く幸村と国と民を守り抜く政宗、対照的な生き方をした二大英雄の戦いと絆(きずな)の物語です。
http://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/29.html
『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
伊達正宗(だてまさむね) (1567-1636) 69歳で死亡。 (一部抜粋しています)
寛永13年春、出府の途中から彼は病み、4月28日、江戸桜田の屋敷に到着後、5月1日には登城したが、以来腹が少しずつ張り出し、21日将軍家光が見舞ったときには、正宗のウエストは120センチくらいになっていた。
この1、2年前から彼は、食後むせることがしばしばあったというから、現代医学から診断すると、食道噴門ガンによるガン性腹膜炎ではなかったかと思われる。腹が張ったのは腹水のためである。
23日、病室を清掃させ、夜にはいってから体を洗わせ、衣服を改めて寝についた。夜中に何度も目覚めて時刻を訊(き)き、「今夜は秋の夜より長いように思われる」といったり、また「畳の上で死ねるとは思わなかった」と感慨深げにいったりした。
おそらく彼の頭には、若い日、敵の人質となった父を敵もろとも殺したり、会津を争って豪勇蒲生氏郷(がもううじさと)と戦ったり、秀吉に小田原に呼ばれて切腹の命令の命令を待ったり、その他朝鮮役、関ヶ原、大阪の役など、数々の死地に落ちた日々のことが明滅していたであろう。
5月24日朝、……死後みだりに死顔を人にみせるな、遺言して、午前6時ごろ、独眼竜正宗のもう1つの眼、左眼も永遠にとじられた。

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