じじぃの「ルドン・『キュクロプス』・魂への祈り!怖い絵」

NHK出版 生活人新書 「怖い絵」で人間を読む PV 動画 YouTube
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Odilon Redon Art 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=eK914c2gPlo&feature=related
キュクロプス 画像
http://www1.odn.ne.jp/~cci32280/image70621.jpg
蜘蛛 画像
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オディロン・ルドンの作品の買取を行っております いわの美術
そんなオディロン・ルドンですが、生まれてすぐに里子に出され、病弱であった事から友達もできず寂しい少年時代を過ごし、心には小さな闇が生まれていました。
その闇を受け入れるかのように絵を描く事で自我を保ち続けたオディロン・ルドンは、フランス画壇を牛耳っていたジャン=レオン・ジェロームに師事しますが、自らの世界に閉じこもりたいオディロン・ルドンにとってジャン=レオン・ジェロームのアカデミズムはなじむ事ができませんでした。
その後、植物学者アルマン・クラヴォーと知り合い、顕微鏡下の世界に魅せられるようになると白と黒の世界で植物学の影響が見られる作品を展開し、断頭や目玉などモノクロの版画で絶望感を感じる作品や、人間の顔を持った植物のようなもの、動物のような顔で笑う蜘蛛など、どこか愛嬌のある作品を発表し続けました。
https://iwano.biz/news/20160319iwanobiz-new.html
オディロン・ルドン ウィキペディアWikipedia) より
オディロン・ルドン1840年4月20日(4月22日説もあり)-1916年7月6日)は、19世紀−20世紀のフランスの画家。
【生涯】
1840年ボルドーの生まれ。本名はベルトラン・ジャン・ルドン。
ボルドー近郊のペイルルバードで少年期を過ごす。病弱で内向的な子供だったという。20歳の頃植物学者アルマン・クラヴォーと知り合い、顕微鏡下の世界に魅せられるようになる。後にルドンが制作した版画には植物学の影響が見られ、版画集『夢の中で』はクラヴォーに捧げたものである。
【題材と作風】
ルドンは印象派の画家たちと同世代だが、その作風やテーマは大いに異なっている。光の効果を追求し、都会生活のひとこまやフランスのありふれた風景を主な画題とした印象派の画家たちに対し、ルドンはもっぱら幻想の世界を描き続けた。象徴派の文学者らと交友をもち、象徴主義に分類されることもあるが、19世紀後半から20世紀初頭にかけてという、西洋絵画の歴史のもっとも大きな転換点にあって、独自の道を歩んだ孤高の画家というのがふさわしい。

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日曜美術館 「夢のルドン 傑作10選!! 魂への祈り」 2011年6月5日 NHK教育
【司会】千住明森田美由紀 【ゲスト】女優 松坂慶子舞踊家 田中泯、阜県美術館学芸部長 山本敦子
19世紀末、奇々怪々な怪物や浮遊する大きな目玉を登場させ、黒い画面に空想の世界を描いた画家がいます。神秘と幻想の画家、フランスのオディロン・ルドン
彼が本当に描こうとしたものは、ただの怪物ではなく、孤独と悲しみが生み出した目に見えない心の闇でした。
生まれてすぐに里子に出され、さびしい少年時代を送ったルドン、内向的な彼はひとりで森を観察し雲を見つめては、空想の世界に浸ることで、孤独な心を慰めてきました。
画家ルドンの世界、それは、どこか魂への祈りにも通じるような不思議な絵でした。
前半生を象徴した黒の時代、しかし、50歳を境に一変します。
油彩やパステルを使った鮮やかな色彩の世界に挑んだのです。
ルドンの色彩の特徴は、現実的な色でないこと、むしろ深いめい想と自らの精神の世界を色で表したことでした。とりわけ「花」の絵は、ルドン独特の色彩に満ちあふれています。
番組では、ルドンの心と色の変遷をたどり、女優松坂慶子、漫画家水木しげる舞踊家田中泯、作曲家武満徹(故人)が、それぞれのルドンの魅力を語ります。
http://www.nhk.or.jp/nichibi/weekly/2011/0529/index.html
『怖い絵』 中野京子/著 朝日出版社 2007年発行
ルドン−作品『キュクロプス (一部抜粋しています)
花咲く野に、裸身の若い女性が眠っている。背後の岩山から、それを単眼の巨人が覗き見る……。
画面は夢の中の出来事のようにどこか曖昧で、色も形も混じりあい。女性の顔も定かでないし、足もとも大地に吸いこまれ、空も不思議な色合いに曇っている。ただ巨人だけがはっきりした輪郭で描かれ、その黒々とした日ばかりが覚醒(かくせい)して見える。体は大きくても小児のように丸顔の巨人は、どこか悲しげで切実な表情を浮かべて静かに立っており、威嚇的なところも攻撃的なところも全くない。
なのにどうしてこれほど不安をかきたてられるのだろう? 妙に粘つく怖さを感じてしまうのは、なぜなのか。
ひとつには、やはりその極端な大きさだ。眠る女性に比べて、雲衝(つ)くばかりの巨体である。古来、人並み外れた巨躯(きょく)に対するイメージは、荒々しい自然の力、未(いま)だ文明化されない野生そのものに重ねられてきた。それゆえさまざまな神話において、巨人は英雄の敵であり、組み伏せられるべき自然のシンボルとなった。人間はこの原初の破壊力を今なお恐れ続けている。静かな川がいつなんどき激流になるかしれず、不動に見える山が突如噴火しないとも限らないように。今は穏やかに立っているこの巨人もまた、どんなきっけけで何をしでかすかわからない強烈な野生を秘めている。
おまけに1つ目である。片方がつぶれてひとつになったというのなら、それは知恵を得るため片目を犠牲にした北欧神話の主神オーディンのように、神の全知を示しもしよう。ところがこの目は違う。視姦(しかん)するあまり両の目が寄ってきて寄ってきて、ずいずいと寄ってきて、ついにはひとつの異常に大きな目玉になってしまった、とでもいうような、そんな狂おしい1つ目だ。見たいものを見たいようにしか見ない目、しかもふたつがひとつになって偏りも倍加した目、客観性を放棄した、まさに小児的な1つ目だ。
キュクロプス(=サイクロプス)――「円い目」を意味するギリシャ語からきている――とは、ウラノスの子どもたちの総称である。単眼の醜(みにく)い巨人だったため父親に疎(うと)まれ、長く地底に閉じ込められていたところをゼウスに救われる。優れた鍛冶師(かじし)となった彼らは、ゼウスの武器となる雷電(らいでん)をお礼として作ってやった。
さてこの絵の主人公は、キュクロプスたちのひとり、ポリュペモスだ。彼はアイトナー火山の洞窟に住んでいたが、たまたま海のニンフ、ガラテアを見かけ、激しく片恋する。乳白の肌をもつ美しいガラテアには人間の恋人アキスがいたので、ポリュペモスなど全く相手にしない。それでも彼は絶望的な恋心に引きずられてガラテアの姿を追い求め、つきまとわずにはいられない。
これはそんなポリュペモスが、眠るガラテアを物陰(ものかげ)からじっと見つめるシーンなのだ。この先に悲劇が待つのは、誰しも想像できるだろう。ある日ポリュペモスは、海辺でガラテアがアキスと戯(たわむ)れているのを見かけ、発作的な怒りにかられて大岩を投げつける。ガラテアは海に逃げたが、アキスは岩の下敷きになって殺されてしまう。
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それにしてもなぜルドンは、決して報われない愛の悲劇性を表現するのに、幼児的ポリュペモスというイメージを使ったのか。
ルドン自身の生い立ちを思い起こさずにはいられない。自伝風エッセー『ある芸術家の打ち明け話』によれば、彼は生後わずか2日目で「荒れ果てた未開の地」へ里子に出されてしまった。何か複雑な事情があったかもしれないが、少なくとも彼はそれを母親に疎まれたためと信じていたらしい。兄が両親のもとで愛情深く育てられていると知ってからは、なおさらだ。しかも里子期間が終わったあともルドンは、その地方の管理をまかされていた年老いた伯父のもとに預けれれ、古い屋敷で親にかえりみられぬまま11歳まで過ごさなければならなかった。この寂しい流刑地(るけいち)については、次のように書いている。
「わたしは自分がかって創りだした悲しい芸術作品の根源がどこにあるかを、完全に理解した。それは修道院のための場所、そこにいれば自分が孤独でいられる遠隔地だった――何たる荒涼! そこではありもしないもので想像力をいっぱいにしなければならなかった」
後年の豊かな幻想が生まれる下地にはなったが、「悲しく虚弱な」少年が幸福でなかったのは間違いない。ようやく自分の家に帰ることを許されても、彼には愛されているという確信がもてないままだった。
「わたしは暗闇を求めた。大きなカーテンの陰、室内の暗い片隅、子ども部屋に隠れることに、わたしは奇妙な喜びを感じていた」
その暗がりからルドンは、自分を捨てた母親を見つめていたのではないだろうか。親に嫌われて地底へ追放されたポリュペモスと同じように、母に流刑されたと感じていたルドンは、母の愛を絶望的に求めつつ、カーテンの陰から、室内の片隅から、そっと母の姿を盗み見して「奇妙な喜びを感じていた」のではないだろうか。自分は身を隠しながら相手を思うさま見つめるというのは、相手に知られないで相手を所有することである。正々堂々と愛を得る自信のない彼は窃視(せっし)によって相手を手に入れるしかなかった。
ルドンは暗がりから愛する人を見つめて、見つめすぎて、とうとう両眼が重なってひとつになったのを感じていたのかもしれない。彼がポリュペモスに自己投影したとして、何の不思議があるだろう。

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どうでもいい、じじいの日記。
中野京子著 『怖い絵』に「ルドン−作品『キュクロプス』」があった。
ルドンの絵にやたらと出てくる1つ目はルドンの心を表現しているようだ。
『蜘蛛』や『黒』などは、『キュクロプス』を描く前の初期の作品だ。
『蜘蛛』に出てくる黒い物体は宮崎駿のアニメ『千と千尋の神隠し』に出てくる「ススワタリ」に似ている。
『黒』に出てくる1つ目は水木しげるの漫画『ゲゲゲの鬼太郎』に出てくる「目玉おやじ」を連想させる。
キュクロプス』に出てくる1つ目の人物は宮崎駿のアニメ『もののけ姫』に出てくる「タタリ神」に似ている。
6月に放送されたNHK教育日曜美術館』の「夢のルドン 傑作10選!! 魂への祈り」を観たが、水木しげるさんが『ゲゲゲの鬼太郎』に出てくる「目玉おやじ」はルドンの絵がヒントになっているとか、言っていた。本当は画家になりたかったのだとか。まあ、漫画家も似たようなものだ。
「生まれてすぐに里子に出され、さびしい少年時代を送ったルドン、内向的な彼はひとりで森を観察し雲を見つめては、空想の世界に浸ることで、孤独な心を慰めてきました」
私は今でも、よく子どもの頃の夢を見る。
友達がいなく、みんなが仲良く遊んでいるのに、いつも一人でいた。
私の母は自分の乳が出なくて、生まれて数ヵ月、私をよその母親に預けたと言っていた。
私の家は、床屋だった。私以外の3人の子どもは母が整髪していたが、私は母に整髪してもらった記憶がない。
私も少年時代に絵を描いた。スケッチブックを持って外に出かけた。人物画を描いた場合はいつも片目を閉じた絵を描いた。
「その暗がりからルドンは、自分を捨てた母親を見つめていたのではないだろうか。親に嫌われて地底へ追放されたポリュペモスと同じように、母に流刑されたと感じていたルドンは、母の愛を絶望的に求めつつ、カーテンの陰から、室内の片隅から、そっと母の姿を盗み見して『奇妙な喜びを感じていた』のではないだろうか」
ルドンの絵は50歳を境に一変した。それまで、黒一色だったのが、油彩やパステルを使った鮮やかな色彩の世界へと変わっていった。
結婚し、子どもが生まれたのである。しかし、ルドンの心の傷が完全に癒されたわけではなかった。
キュクロプス』はルドンが58歳のときの作品である。鮮やかな色彩の絵ではあるが、まだ、1つ目を描いていることが心の傷を引き継いているような印象を受ける。
ルドンは変った。しかし、私は子どものころの傷をずっとそのまま引き継いているのである。
え、あんたのことなんてどうでもいい? こりゃまた失礼しました! (^^;;