じじぃの「歴史・思想_90_世界史を変えた指導者・パブロ・ピカソ」

Pablo Picasso. Brief biography and paintings. Great for kids and esl.

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=33BCnqpS8NA

Les Demoiselles d'Avignon (1907)

『図説 世界史を変えた50の指導者』

チャールズ・フィリップス/著、月谷真紀/訳 原書房 2016年発行

つねに芸術の限界に挑戦しつづけた。精力的で多作な芸術家

多彩なスペイン人芸術家パブロ・ピカソは、フランス人画家の友人ジョルジュ・ブラックとともに絵画を分解し、再構成して現代芸術を創造した。そして前衛芸術のリーダーとなった。

1907年、一流の画家たち数人がパリにあるパブロ・ピカソのアトリエを訪れ、衝撃的な最新作「アビニヨンの娼館」(のちの「アビニヨンの娘たち」)を見学した。「アビニヨンの娘たち」でピカソは伝統的な遠近法をすて、5人の娼婦を不調和で断片的ないくつもの視点から描いて、様式化し徹底的に二次元かした絵を生み出した。ピカソはこの技法を「オルタ・デ・エブロの貯水池」などの作品でさらに発展させている。「オルタ・デ・エブロの貯水池」は1909年夏に南スペインで描かれた油彩画で、幾何学的な図形を用いて建物と風景を複数の視点から表現している。野心家でどこまでも革新性を追求したピカソは、新しい現実表現法の最先端にいた。
ピカソジョルジュ・ブラックとならびキュビスムのリーダーになった。キュビスムはほぼまちがいなく20世紀でもっとも影響力のあった美術運動である。キュビスムの画家たちは、絵を三次元的に見せるために用いされていた遠近法や短縮法[人体の表現に用いられた遠近法の一種]などの技法を拒絶し、現実のキャンバスが二次元であることを強調して、描く対象を分解し幾何学形の集合体として描いたり、複数の視点をとりいれたりした。運動の名前は、美術批評家のルイ・ヴォークセルが1908年のブラックの油彩画「レスタックの家」を評して書いた「奇妙な立方体の集まり(ビザラリ・キュービック)」という言葉に由来する。ピカソとブラックは1907年から1911年にかけて新しいスタイルを発展させたがジャン・メッツァンジェやアルベール・グレーズやキュビスムの画家たちがはじめて公式に作品を展示した1911年春のアンデパンダン展には出品しなかった。
ピカソは大改革者だった。このキュビスムの初期の形態を出発点として、彼とブラックは1910年以降、さらに抽象的なスタイルにつき進む。最初ピカソ幾何学的な図形を配置して構成した、描かれた対象がほとんど判別できない絵を創造した。その例が1911年夏に描かれた「ラム酒の瓶のある静物」である。次に「パピエ・コレ」(貼り紙)を導入する。たとえば1912年「帽子をかぶったヴァイオリンをもつ男」では、新聞紙の切れ端を使っている。彼は現代美術をリードしていた。ほかの画家たちは彼の向かう方向に注目しないわけにはいかなかった。
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長い画家人生を通じて、ピカソはたえずスタイルと手法を変化させた。こころを動かされた事件を変化のきっかけとすることが多かった。1936年にスペイン内戦が勃発すると、彼はフランシスコ・フランコ将軍率いる国民戦線軍と戦っていた共和国派を熱心に支持し、彼らを援助するため販売用の絵画制作に取り組んだ。1937年に巨大なキャンパスに「ゲルニカ」を描く。バスク地方にあった同盟の空襲による惨状を悼んだ、ピカソのそらくもっとも有名や作品である。

スタイルを同時進行 より

ピカソは前衛的なキュビスム作品に取り組むかたわら、伝統的な自然派の絵画も描いた。生涯を通じて彼は、複数のスタイルを同時に進行することができた。自分は完璧な絵画形態をめざそうとしているのではなく、主題にもっともふさわしいスタイルを選ぶのだと語っている。この姿勢からリーダーが得るものは大きい。チャンス、もたらされる結果の可能性、集団を率いる方法は複数ある、とつねに思っておこう。選択肢をすててはいけない。また、課題の違いに応じて自分のスタイルやアプローチを合わせるのも有益だろう。