じじぃの「歴史・思想_301_ベラルーシ・画家・シャガール」

Om Marc Chagall og Chagall-museet i Vitebsk

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=wRemqefKftI

Marc Chagall. Over Vitebsk

Marc Chagall. Over Vitebsk. 1915-20 (after a painting of 1914)

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ベラルーシを知るための50章』

服部倫卓、越野剛/編著 明石書店 2017年発行

シャガールと永遠の故郷 ヴィテプスク――シャガール芸術の普遍性 より

これら(フォーヴィスムキュビスム)の絵画を中心とする20世紀初めの革新派、主にフランスのパリに集まってきた画家たちによってなされた。スペインからやってきたパブロ・ピカソ(1881~1973)はその中心的人物であったが、ピカソ以外にも多くの画家たちがパリを目指した。それぞれの画家たちはそれぞれの出身国の歴史と文化を背負ってきたが、この頃のパリは彼らの個別性よりも、それを総合する普遍的な美術のあり方やその方法を模索すること、つまり美術のモダニズム(近代性)を追求する場所であった。この章の主人公、ベラルーシ出身のマルク・シャガール(1887~1985)もそのようなパリに憧れてやってきた若者の一人であった。
シャガールは1887年、ベラルーシヴィテプスクに生まれた(一説によると近郊の町リオズノ生まれとも)。シャガールの父親は二シンの倉庫で働く労働者であり、母親は自宅の一角で小さな食料品と日常雑貨を扱う店を営んでいた。2人は敬虔なユダヤ教徒であり、経済的には決して裕福ではなかったが、精神的には満ち足りた生活を送っていたようだ。
シャガールはこの町で少年時代を過ごし、19歳になる1906年には、地元の画家イエフダ・ペンの開いた絵画学校で初めて正式に絵を習った。次いでサンクトペテルブルクに出て、帝国芸術保護協会が設立した学校で本格的な絵画の勉強を始めた。
1908年には同じサンクトペテルブルクにあったスヴァンツェヴァ学校に移る。この学校では当時、パリから帰国した画家であり舞台美術家のレオン・バクストが教鞭をとっていた。シャガールはバクストやその仲間たちからロシアとは違うパリの新しい芸術思潮に触れ、1910年、大きな希望を胸にパリを目指す。
パリには1910年から1914年まで滞在する。この間、サロン・ドートンヌ展や無審査の展覧会であるアンデパンダン展などに出品する。これらの展覧会はいずれもアカデミズムの牙城である公募展「ル・サロン」に対抗し、新しい美術を創造しようとした画家たちが出品していた。前述したフォーヴィスムが生まれたのはまさに1905年に開かれたサロン・ドートンヌ展においてであった。
シャガールはパリで伝統的なアカデミズムよりも革新的なフォーヴィスムキュビスムに興味を持ち、その影響を受けた。この頃のシャガールの作品にはその20世紀モダニズムの影響が顕著であり、それは以後の画家シャガールの骨格を作ったと言ってよい。
1914年、一時帰国のつもりでヴィテプスクに戻るが、この時第一次世界大戦が勃発し、そのまま故郷に留まることになった。そして1915年にはベラ・ローゼンフェルトと結婚する。ベラの家はヴィテプスクで宝石商を営み、富裕なユダヤ人一家であった。これ以後、ベラはシャガールの創造のミューズとなり、私生活でも創作の上でも大きな存在となっていった。
結婚後はヴィテプスクを離れ、ペトログラードと改名されたサンクトペテルブルクに出る。そこで戦時経済局に勤め、翌年の1916年には娘のイダが生まれた。ロシア革命が起きた1917年にはヴィテプスクに戻り、1918年には革命政府の一員として芸能人民委員になった。この年、革命1周年を記念して、自らの前衛的な作品をヴィテプスクの街頭に展示する大規模なイベントを実施した。
そして1919年には自らの発案によって新たに開校したヴィテプスク芸術学校の校長を務めた。
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この後のシャガールの半生は波乱に富んでいる。しばらくベルリンに滞在した後、1923年にパリに戻ったシャガールはフランス各地に滞在し、フォンテーヌの『寓話』の挿絵や聖書の挿絵などの制作を始め、新たな分野を開拓する。1937年にはフランスの市民権を得たのも束の間、第二次世界大戦中が始まり、ナチス・ドイツユダヤ人迫害を避けるように1941年にはアメリカに亡命する。
しかし、亡命生活も落ち着いた頃、1944年には長年連れ添った妻ベラが亡くなる。シャガールは悲嘆に暮れ、しばらく絵筆を取ることができなかったが、1945年にはアメリカでバレー「火の鳥」の舞台美術と衣装を制作。戦後の1946年にはニューヨーク近代美術館、1947年にはパリ国立近代美術館で回顧展が開催され、20世紀前半のシャガールの画業は確固たる評価を得、大きな名声を獲得した。