じじぃの「科学・芸術_936_ウェールズ・風景画(ピクチャレスク)」

Joseph Mallord William Turner

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=-ItcwbsLDjA

View of Snowdon from Llyn Nantlle, one of the Richard Wilson

ウェールズを知るための60章 吉賀憲夫(編著) 発行:明石書店

英国を構成する4つの「国」の1つウェールズ。最も早くイングランドに併合されたが独自性を保ち続け、英語と全く異なるウェールズ語を話せる若者も少なくない。アーサー王伝説のルーツを持ち、海苔を食すなど日本との意外な共通点もあるウェールズを生き生きと紹介する。
Ⅵ 絵画・スポーツ・音楽・生活
第45章 ピクチャレスクなウェールズを描いた画家たち――リチャード・ウィルソンとその周辺
https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784750348650

ウェールズを知るための60章』

吉賀憲夫/編著 赤石書店 2019年発行

ピクチャレスクなウェールズを描いた画家たち――リチャード・ウィルソンとその周辺 より

1738年に出版されたウェールズ旅行記集の中で、ある旅行者はウェールズの山岳地帯を「ノアの洪水後の瓦礫の山」と表現している。これは、この書物が出版された18世紀前半にウェールズを旅した人々が共通して抱いたウェールズの自然観であった。しかし、18世紀後半になるとこの自然観に変化が現れた。ピクチャレスクの登場である。ピクチャレスクとは文字通り「まるで絵のような」という意味だが、それはサルヴァトール・ローザ、クロード・ロラン、ニコラ・プサンの描いた風景と同様の、「まるで絵のような」風景が現実の中にあるのだという逆転の発想であり発見であった。
かって瓦礫の山にしか見えなかったピクチャレスクの山が、当時の美と崇高という美学的・哲学的議論を経てピクチャレスクという審美理念に到達し、鑑賞の対象となったのである。それは風景の中に、洗練されたものと粗野なものとの組み合わせを楽しむという新しい趣向であり、風景画や当時の観光旅行に強い影響を与えた。ウィリアム・ギルピンが南ウェールズのワイ川のピクチャレスクな美を1782年の著書で紹介して以来、この本をガイドブックとして、ウェールズに新しい美を求めて人々が押し寄せてくるようになるのである。
ウェールズが多くの画家たちの興味の対象となる前に、ウェールズではすでに、後にイギリス風景画の父と称される画家リチャード・ウィルソンがウェールズの風景を描いていた。彼は、中部ウェールズのペネゴエスで生まれ、1750年から1757年にかけイタリアで風景画の修業をした。帰国後、《ウィンステイ近郊の風景》や《スランゴスレンから見たディナス・ブラーン城》などのウェールズの風景を描くが、有力な後援者もなく、ロンドンでの生計は成り立たなかった。彼は故郷のデンビーシャーに戻り、貧困のうちに翌年そこで没した。しかし彼の死後、古典的形式を保ちながら、その中にロマンチックな感情を湛(たた)えた彼の風景画はコンスタブルやラスキンの賞賛するところとなった。彼は《ナントル湖から見たスノードン》をはじめとして、ウェールズやロンドン近郊の風景を描くことにおいて、イギリス風景画の発展に大いに寄与したのであった。
リチャード・ウィルソンの弟子トマス・ジョーンズは近年とくにその評価が高まっている画家である。彼は中部ウェールズの地主の家に生まれ、オックスフォード大学に進むガ中退し、ウィルソンの弟子になった。1774年にはトマス・グレイの詩「吟唱詩人」に基づいた同盟の作品を描いている。彼は1776年から1793年までイタリアに滞在し、風景画を描いた。代表作に《ナポリの家》などを含む連作「ナポリの眺め」がある。彼は帰国後も絵を描き続けたが、1785年以降は画家を本業とすることはなかった。
18世紀後期になると画家や裕福な地主層がピクチャレスクな美を求めてウェールズにやって来た。これら富裕層の人々は旅の記録を残すために画家を伴うこともあった。画家たちは新しい美をまとったウェールズの風景を描いた。それらは版刻されることにより書物の挿し絵として、また画集として広く一般に流布した。
画家たちが旅で使用した画材は水彩であった。水彩は持ち運びが手軽であったふだけでなく、イギリスの変わりやすい天候や、水や空気の流れ、変化に富む地形や風景を素早く的確に表現することのできる最適の媒体であった。水彩風景画は17世紀の地図作成技術のひとつであったが、やがてそれが地誌学的な情報以上のものを伝えるこtのできる芸術であるということがわかると、上流階級の上品なたしなみのひとつとなった。
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J・M・W・ターナーは1792年から1798年の間に5回ウェールズを訪れたが、そのあいだ彼は《ティンターン大修道院翼廊》《ワイ川にかかるライヤダー・グワイ橋》《南から見たコンウィ城》などの水彩スケッチを描いた。その中でも1795年の南ウェールズ旅行の時のメモと鉛筆スケッチに基づいて制作され、1797年の王立美術院展に出品された水彩画《ユーウェニー修道院》は批評家に絶賛された。