じじぃの「人の生きざま_77_三浦・雄」

三浦雄一郎 - あのひと検索 SPYSEE
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強風のエベレスト 三浦雄一郎のヒマラヤ登山 Vol3 動画 YouTube
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三浦雄一郎さん、80歳で再チャレンジ!帰国 動画 YouTube
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ミウドルフィンズトップページ
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三浦雄一郎 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
三浦雄一郎(みうらゆういちろう、1932年10月12日 - )は、青森県青森市生まれのプロスキーヤー及び登山家である。クラーク記念国際高等学校校長、全国森林レクリエーション協会会長。
父の三浦敬三も山岳スキーヤーで、長男の三浦雄大は競技スキーヤー、二男の三浦豪太はリレハンメルオリンピック長野オリンピック出場したフリースタイルスキーモーグル選手。
【略歴】
旧制黒沢尻中学校(現岩手県立黒沢尻北高等学校)に入学、その後青森県弘前高等学校に転校し卒業、北海道大学獣医学部に進学。母校の北大獣医学部に助手として勤務後、1960年代始め頃からスキー学校を開設しプロスキーヤーとして活躍、1964年7月イタリアで開催されたキロメーターランセに日本人で初めて参加、時速172.084キロの当時世界新記録を樹立(なお、この前後に3度転倒し、「世界で最も速い速度で転倒して無傷で生還する」という珍記録も樹立している)。1966年4月富士山直滑降、1970年5月エベレストのサウスコル8000m地点からの滑降(ギネスブックに掲載)など世界七大陸最高峰からの滑降を成し遂げた。
1973年青森大学工学部生物工学科教授就任。
2003年5月22日、世界最高峰のエベレストに世界最高齢(ギネスブックに掲載)となる70歳7か月での登頂を果たす。同時に二男・豪太との日本人初の親子同時登頂も遂げた。
2008年5月26日、75歳(世界歴代2位)でエベレストに再登頂した。その前日に76歳で登頂を果たしたとされるネパール人男性ミン・バハドゥール・シェルチャンの記録については、年齢を実証する書類、また登頂成功を証明する書類が存在しないことから認定されず、ギネスブックには三浦が最高齢登頂者として認定された。これに対してシェルチャン側が書類をそろえ再度申請を行い、2009年11月23日にシェルチャンに認定証が授与された。

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週刊現代 2011年8月6日号
三浦雄一郎(登山家・プロスキーヤー) 人生には目標が必要だ (一部抜粋しています)
78歳の男は再来年、3度目のエベレスト登頂を目指す。その眼はいまも日に日に輝きを増し続けている。年をとるどころか、年々若返っていくかのように。
三浦雄一郎は週に数度、東京の街を、トレーニングで歩く。背中に20kg、両脚にそれぞれ4kgの錘(おもり)を括(くく)りつけたその姿は、ここが街の真ん中であることを思えば、なかなか際立つものがあった。
「エベレストに登るわけだから、これくらいやらないと。富士山の頂上に登ると、人は生理学的には自分の年齢プラス70歳の状態になるというんです。となると、僕の場合は150歳になっちゃう。トレーニングの目的は、今の言葉で言うアンチエイジングってやつですよ」
そう言って彼は、「はっはっは」と快活に笑った。
70歳と75歳の時にエベレストの頂上を極めた三浦はいま、再来年の80歳での登頂を目指して準備を進めている。成功すれば、現在の記録を4歳上回る世界最高峰の快挙となる。登頂予定は5月中旬というから、2年近く先だ。その間、今年10月から11月にかけてヒマラヤのメラピーク(標高6654m)に登り、富士山などでトレーニングを積む。来年には7000m級の山に登頂する予定だ。錘を背負って進む三浦の歩みは、それほど速くはなかった。ゆっくりと着実に自分のペースを守り、それを崩さない。一定の間隔で息を肺の奥まで吸い込み、口をとがらせて「ふー」と吐き出すのが印象的だ。
「どうせ山は逃げないですからね。自分の年齢のペースでゆっくりゆっくり」
このトレーニングは時間もコースも決まっていないという。明治神宮への参拝客や近所の幼稚園の先生が「三浦さ〜ん」と明るく声をかけてくる。「気分次第で進みたい方へ進むだけ」
声援を受けながらにこやかに語ったその言葉は、まるで彼が自らの行き方そのものを語っているようにも聞こえるのだった。
「事務所には低酸素室もあります。最高で標高6500m程度の酸素にできるので、エベレストに登る2ヵ月前に入って徐々に体を高地に慣らしていく。その中で歩き、一晩眠るんです。とてもキツいけれど、ものすごいトレーニングになりますよ」
三浦には、「人生には何よりもまず目標が必要だ」という信念がある。それは彼の行き方を支える基本的な哲学とも言えるもので、70歳を超えてからエベレストへの登頂を目指したのも、1度では満足せずに2度目、3度目の登頂に挑むのも同じ理由からだ。
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「無風の状態でもジャンプしたら、普通は空気の抵抗がぶーっとある。それが何か真空の中に吸い込まれるような感じなんです。下から抵抗を受けなければ後ろに引っ張られ、それがなければ前にストンと一気に落ちる感覚。そんな中、クレパスまであと800mくらいのところで転倒したんです」
地面は固い氷で覆われていた。スキー板が両足から外れ、なす術なく滑り落ちながら「もう助からない」と思った。ところが、その最中に自分でも想像していなかった気持ちを、胸の裡(うち)で確かに感じたと彼は振り返る。
「変な話ですが、空から誰かに見られているような感覚で、『300年、3万年、3億年経ったら、僕はどこの星で何をしているんだろう』と妙な好奇心がわいてきたんです。不思議なことに恐怖心は全くありませんでした」
大きな岩で一度飛び跳ねると、50mほど滑り落ちたところで体が止まった。もうもうと上がる雪煙が消え、しばらくして生きていることを実感すると、「ああ、もう一度人間の姿で劇場に帰って来て、三浦雄一郎という役をやるんだ」と胸の奥で呟いたという。
では、なぜその時の自分は「死」を意識しながらも、全く恐怖心を抱かなかったのだろうか。三浦は「要するにこういうことだと思うんです」と話す。
「1966年に富士山の格好を終えた後、ニュージーランド政府に呼ばれてタスマン氷河を滑った時、トレーニングを碌(ろく)にせずに現地に行ったんです。するとスキーはいつもどおりに滑れているのに、『山に呼ばれていない』という意識が消えず、本当に怖かった。ところが次に入念な準備をして同じ場所を滑ると、今度は全く気持ちが変わっていたんです。エベレストの滑降もそれと同じ。このまま終っても命は惜しくないというあの感覚は、目標や夢に向かって努力するという過程を経なければ生じないものなんです」
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彼の話を聞いていると、何とも言えず楽しい気持ちになる。底抜けに明るく、楽観的で、40年以上前の冒険を昨日のことのように語る。そしてときおりとんでもない冗談を言って周囲を笑わせては、悪戯っぽい表情を浮かべる。そうした様子に接しながら、多くのスタッフや医師が彼を愛し、前人未到の記録への挑戦を支えたくなる理由が分かる気がした。
「どんな山を何度登ってもそれぞれ感動がありますが、エベレストは僕にとって特別な場所です。8000m以上のデスゾーンと呼ばれる高さを超えた、神様が人間に『ここまでが限界だ』と言っているような不思議な高さ。真っ青に空が晴れていると、歩いてこのまま宇宙まで行けるんじゃないか、という気持ちになれるんです」
そう言うと彼はもう一度、生き生きとした夢見るような表情を見せた。

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