じじぃの「人間の業(ごう)とは!ふしぎなキリスト教」

Great Pyramid of Giza - Pyramid of Cheops 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=HVJFsQwDSWA
First Moon Landing 1969 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=RMINSD7MmT4
星新一 ショートショートの神様 その生涯 5/5 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=fqOsmI5xNTQ&feature=related
 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
業(ごう)とは、仏教の基本的概念である梵(karman)を意訳したもの。サンスクリットの動詞の「クリ」(kR)の現在分詞である「カルマット」(karmat)より転じカルマンとなった名詞で、「行為」を意味する。
業はその善悪に応じて果報を生じ、死によっても失われず、輪廻転生に伴って、アートマンに代々伝えられると考えられた。アートマンを認めない無我の立場をとる思想では、心の流れ(心相続)に付随するものとされた。中国、日本の思想にも影響を与える。「ウパニシャッド」にもその思想は現れ、のちに一種の運命論となった。

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ETV特集 「暗黒のかなたの光明 〜文明学者 梅棹忠夫がみた未来〜」 2011年6月5日 NHK教育
【語り】中川緑 【番組案内役】作家・博物学荒俣宏
宮城県石巻市の高台から市内の住宅地を見渡している荒俣さんの映像が出てきた。
先月、東日本大震災を被災地を訪ねた作家の荒俣宏さんです。
荒俣さん、「いかに津波が凄いか。ここは住宅密集地だったらしいけど、ほとんど跡形もないです」
巨大地震津波、そして原発事故。それ等を前に、現代文明はなす術もありませんでした。問われているのはまさに文明のあり方だと荒俣さんは感じています。
荒俣さん、「私は今、この光景の前で考えるのは、我々がこんなに信頼してきた文明がなぜこんなに脆くも破れ去ったということです。その現場を実は私たちは目撃してしまいました。まるでこの光景が文明と自然の関係、どうするんだという問い直しを迫っている。そういう現場だと思います」
実はかなり早い時期から、文明について考察した人物がおりました。梅棹忠夫という人です。彼は文明の未来を見通しながら、決してその先はバラ色の未来は待っているわけではなく、ひょっとすると、今私たちが目の当たりにしているこのような光景が起こるのではないかと予言した人物でもありました。
この梅棹忠夫はいったい何を言ったのか。そしてそこから私たちは何を学べるのか。もう一度、彼の思想を見直すべき時がきたのではないかと思います。
文明学者・民族学者 梅棹忠夫(1920〜2010)
文明学者 梅棹忠夫。戦後日本の文明学・民俗学を強力にリードし、去年90歳で亡くなった知の巨人です。
梅棹は半世紀に渡り、文明の未来について深く考察し続けました。
生前にテープレコーダーに録音された梅棹さんの声が出てきた。
「現在の未來学というのは、どのように考つつあるか。僕としてはだいたい悲観論。あかん」
1970年この発言をした当時、梅棹は一冊の本の執筆に取り組んでいました。タイトルは『人類の未来』。しかし、本は完成しませんでした。描こうとする未来があまりにも悲惨だったからと言われています。
梅棹が書き残した目次です。「暗黒」と記された最終章。しかし最後は「光明」という言葉で結ばれています。
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梅棹さんの「科学の本質」
文明によって自ら墓穴を掘ってしまうジレンマ。梅棹はその根本的な原因を考えました。注目したのが、現代文明を進歩させる原動力になった科学の本質です。
「人間にとって科学とはなにか。これはわたしはやっぱり業(ごう)だとおもっております。人間はのろわれた存在で、科学も人間の『業』みたいなものだから、やるなといってもやらないわけにはゆかない。いま現存する科学知識を全部消滅させることができても、人間はまたおなじことをやりはじめます。真実をあきらかにし、論理的にかんがえ、知識を蓄積するというのは人間の業なんです」 (『未来社会と生きがい』 1970年より)
人間が科学というを持つが故に、文明は暗黒に向かうと予見した梅棹。梅棹がそのに気づいたのは世界の民族を文明の視点で調査してきた独特の研究の中からでした。
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テープレコーダーに録音された梅棹さんの声が出てきた。
「知能というのはばく進する性質がある。科学というものはそれによって支えられている。これは業や。こんなものは本当に性欲に非常によく似ているところがある。コントロールできひん。それは『お前ら子どもを作るな』というのと同じで、それはできひん」
知的探究心はであるために制御することは不可能である。梅棹はこの事実こそが未来が「暗黒」にならざるを得ない根本的な原因だと考えるに至りました。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎/著 徳間書店
伊藤整(いとうせい) (1905-1969) 64歳で死亡。 (一部抜粋しています)
伊藤整は昭和44年2月ごろから、自動車に乗ると吐いたり、便秘や血便の症状があったが、彼はその重大性に気がつかなかった。
しかし4月28日ついに倒れて床についてから、その憔悴(しょうすい)ぶりが甚だしいので、妻が、いやがる彼を説得して神田の同和病院に入院させ、診断の結果、5月11日、開腹手術を受けた。手術後、医者は「非常に残念なことを申しあげます」といい、多分胃に発生したガンがいまや肝臓、直腸をはじめ腹腔一杯にひろがっていて、もう手のほどこしようもないことを家族に告げた。
家族はこのことを整に秘した。
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7月にはときどき帰宅を許され、8月には退院した。しかし9月にはいると、また吐気と食欲減退に悩まされるようになった。
10月18日、彼は、明後日がん研附属病院に入院する決心がついたことを家族に伝え、
「おれは今度の病気では死なない。死なないが、がんかも知れない。そうだったらしかたないが、おれはがんではないと信じている」
と、いった。しかし、その夜彼は日記に書いた。
「貞子(妻)たち、決してがんでないというが、私は最悪を考えて、涙流れる。『年々の花』ひとつでもまとめたし。『発掘』『三人のキリスト者』それぞれ1週間必要、文壇史の三章(明治45年)書き足し、全篇の訂正は大事業にて、私がいま死んだら……」
それは未完の長編や、なかんずく18年書きつづけて来たライフワークの『日本文壇史』への妄執であった。
人は死に臨んで、多くはおのれの「事業」を一片でもあとに残そうとあがく。それがあとに残るという保証はまったくないのに。――これを業(ごう)という。

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『ふしぎなキリスト教 橋爪大三郎大澤真幸/著 講談社現代新書 2011年発行
一神教を理解する――起源としてのユダヤ教 (一部抜粋しています)
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神々を否定し、放逐してしまうという点で、一神教と、仏教、儒教はよく似ている。そして、日本とは正反対なんです、この根本を、日本人はよく理解する必要がある。神道多神教で、多神教は世界にいっぱいあるじゃないか、なんて思わないほうがいい。
神々は放逐された。だから、仏教、儒教一神教がある。世界の標準はこっちです。世界は一度壊れた。そして、再建された。再建したのは、宗教です。それが文明をつくり、いまの世界をつくった。こう考えてください。
偶像崇拝がなぜいけないか。大事な点なので、もう1回確認しておきます。偶像崇拝が行けないのは、偶像だからではない。偶像をつくったのが人間だからです。人間が自分自身をあがめているというところが、偶像崇拝のいけない点です。
余談ですが、偶像崇拝がいけないという論理がマルクス主義にもあるでしょう? 資本主義がいけないのは、疎外 → 物象化 → 物神化というプロセスによって、人間の労働がほんとうの価値の実体なのに、それが商品になり貨幣になり資本になり、物神崇拝されるに至って、自𦹀がつくりだしたものをそれと知らずにあがめている転倒した世界だからです。この論理は、ユダヤ教キリスト教とそっくりだ。
マルクス主義の資本主義批判を参考にすると、一神教偶像崇拝批判がよくわかる。偶像崇拝がいけないのは、Godでないものを崇拝しているからです。それは人間の業(ごう)なんです。人間をあがめてもいけないし、人間がこしらえた偶像を崇拝してもいけない。

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どうでもいい、じじぃの日記。
ぼけっと、『ふしぎなキリスト教』という本を見ていたら、「人間の業(ごう)」というのが出てきた。
業とは仏教用語で梵(karman)というのだそうだ。カルマは宿命ともいう。
そういえば、6月放送のNHK ETV特集 「暗黒のかなたの光明 〜文明学者 梅棹忠夫がみた未来〜」でも人間の業が出てきた。
「人間にとって科学とはなにか。これはわたしはやっぱり業(ごう)だとおもっております。人間はのろわれた存在で、科学も人間の『業』みたいなものだから、やるなといってもやらないわけにはゆかない。いま現存する科学知識を全部消滅させることができても、人間はまたおなじことをやりはじめます。真実をあきらかにし、論理的にかんがえ、知識を蓄積するというのは人間の業なんです」
『ふしぎなキリスト教』の「一神教を理解する――起源としてのユダヤ教」には、
偶像崇拝がいけないのは、Godでないものを崇拝しているからです。それは人間の業(ごう)なんです。人間をあがめてもいけないし、人間がこしらえた偶像を崇拝してもいけない」
そうかあ。偶像崇拝は人間の業なのか。
そういえば、日本にはXX神社がたくさんあるなあ。東郷神社とか乃木神社とか。
エジプトのピラミッドも人間の業なのだろうか? 原発も、ロケットも人間の業なのか?
そういえば、『人間臨終図巻 上巻』の「伊藤整」のところにも人間の業が書かれていた。
「人は死に臨んで、多くはおのれの『事業』を一片でもあとに残そうとあがく。それがあとに残るという保証はまったくないのに。――これを業(ごう)という」
星新一」の動画(YouTube)の中にこんなのがあった。
「人生の締め切りが近づいていた。そして星新一はSF作家の宿命と闘うことになる。現実は空想を追い越していく。変わらないものは何もない。彼は再び机に向かった。自分の作品が古びていくのを見たくなかった。人生最後の仕事とは一体何だっだのか。それは1001篇のショートショートに永遠の生命を吹き込むこと。星は取りつかれたように机に向かった。未来の読者のために。ショートショートの古くなった表現をひとつひとつ書き直す。それは途方もない作業であった。新一には分かっていた。この世に永遠のものなどない。ただ自分の作品の寿命を延ばしてあげたかった」
植木等」の歌にこんなのがある。
「わかっちゃいるけどやめられない」 ♪
意外と真実はこんなところにあるのかもしれない。