じじぃの「科学・芸術_527_インド哲学『リグ・ヴェーダ』」

Vedic theories of the universe !!! ( ancient indian scriptures ) 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?time_continue=43&v=hEca1MiE4GA
インド哲学

ETV特集 「暗黒のかなたの光明 〜文明学者 梅棹忠夫がみた未来〜」 2011年6月5日 NHK Eテレ より
【語り】中川緑 【番組案内役】作家・博物学荒俣宏
大阪に国立民族学博物館を創設、日本の民族学研究の礎を築き、比較文明学者として数々の業績をなした梅棹忠夫(うめさお ただお)が、昨年7月、90歳で亡くなった。梅棹は、大阪と生地京都を根拠地とし、世界中で学術探検を重ね、その知見をもとに戦後の日本社会に大きな影響を与えつづけた「知の巨人」だった。
東日本大震災で、私たちの文明世界の価値観がゆらいでいるいま、番組では、梅棹忠夫と交流があった作家・博物学者の荒俣宏さんとともに、独自の文明論をもとにさまざまな予言をなした梅棹忠夫の未完の書「人類の未来」をめぐり、宗教学者山折哲雄さんや他の識者との対話もまじえて、梅棹忠夫から投げかけられている問いかけを考える。
自然への畏怖(いふ)を忘れることなく、文明を築き上げてきたはずの日本人。その伝統を逸脱して突き進むようになったのはそれほど昔のことではありません。何が私たちをそうさせたのでしょうか。
梅棹さんの「科学の本質」
文明によって自ら墓穴を掘ってしまうジレンマ。梅棹はその根本的な原因を考えました。注目したのが、現代文明を進歩させる原動力になった科学の本質です。
「人間にとって科学とはなにか。これはわたしはやっぱり『業(ごう)』だと思っております。人間はのろわれた存在で、科学も人間の『業』みたいなものだから、やるなといってもやらないわけにはゆかない。いま現存する科学知識を全部消滅させることができても、人間はまたおなじことをやりはじめます。真実をあきらかにし、論理的にかんがえ、知識を蓄積するというのは人間の『業』なんです」 (『未来社会と生きがい』 1970年より)
人間が科学という業を持つが故に、文明は暗黒に向かうと予見した梅棹。梅棹がその業に気づいたのは世界の民族を文明の視点で調査してきた独特の研究の中からでした。
http://www.nhk.or.jp/etv21c/file/2011/0605.html
ウパニシャッドを解読する Philosophy Guides
ウパニシャッドは、バラモン教聖典ヴェーダリグ・ヴェーダ、サーマ・ヴェーダ、ヤジュル・ヴェーダ、アタルヴァ・ヴェーダ)に末尾に収められている著作群だ。
ウパニシャッド』という名前の本があるわけではない。
ウパニシャッドとは、サンスクリット語で「奥義書」とか「秘教」を意味しており、ヴェーダの総仕上げとして位置づけらた著作群だ(なので『ウパニシャッド』という名前の著作があるわけではない)。
全部で200以上の著作がウパニシャッドを構成しているが、いずれも著者は不明だ。

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インド哲学10講』 赤松明彦/著 岩波新書 2018年発行
インド哲学の始まりと展開 より
インド最古の文献である『リグ・ヴェーダ』は、紀元前1200年頃に完成したと言われている。ちなみに、古代インドの文献に関して言えば、その成立年代が確かなものはひとつもない。多くは相対的に決定されるだけであるとということを、覚えておいていただきたい。
リグ・ヴェーダ』は、全部で10巻からなる、千余りの詩編の集成である。そこに含まれる詩の多くが神々にささげられたものであるが、長い時間をかけて完成に至った。ヴェーダには、その他に、『サーマ・ヴェーダ』『ヤジュル・ヴェーダ』『アタルヴァ・ヴェーダ』の3つがあるが、最後の『アタルヴァ・ヴェーダ』が、前1000年頃に成立したとされている。
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われわれが住んでいるこの世界のはじまりはどのようなものであったか、そのとき何があったのか。世界の成り立ちを問うのが哲学であれば、そのおおもとは、このような問いがあっただろう。そして、その問いに答えるものとして、哲学以前には宇宙創造の神話があった。インドにも、そのような神話は数多くあり、その多くが人格化された神による創造神話――たとえば、千個の眼と頭と足をもつ「プルシャ(原人)」がこの世界を創ったという――として語られてきた。
しかし、そうしたなかで、早くも『リグ・ヴェーダ』もおいて、「そのとき(太初において)無もなかりき、有もなかりき。空界もなかりき、その上の天もなかりき。何ものか発動せし、いずこに、誰の庇護の下に。深くして測るべからざる水は存在せりや」(10.129。辻直四郎訳『リグ・ヴェーダ賛歌』)と歌われていることは注目に値するであろう。
この「宇宙開闢の歌」は「リグ・ヴェーダ」の哲学思想の最高峰を示すもので、神話の要素を除外し、人格化された創造神の意味を脱し、宇宙の本源を絶対的唯一物に帰している」(辻直四郎、同書)と言われる通り、抽象性の高い、確かに「哲学」と言ってよいような思想を述べたものになっている。
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根源的一者が、どのようにして現象界の諸事物として現れてくるのか、作り出されるのかという問いは、存在の根源についての問いであり、本書における中心的なテーマである。この後の講義でも、「根源的一者」、「自己(アートマン)」、「名称と形態」はくり返し現れてくる概念であるので、ここに簡単に説明しておきたい。
まず、目下のウッダーラカの教示において、<あるもの>と言われている「根源的一者」は、ウパニシャッドの思想において宇宙の最高原理とされ、後のインド思想の展開のなかでも常に絶対的で永遠普遍の実在としての位置を占める「ブラフマン」を指すものである。「ブラフマン」とは、神聖で霊力をもつ絶対的な言葉を意味していたが、やがてその霊力そのものを意味するようになった。そしてそれが、<あるもの>、つまり存在の根源に<在るもの>とみなされるようになったのである。
一方、「ブラフマン」と並んで重要なのが「アートマン」である。「アートマン」は、根源的な存在として「ブラフマン」の同義語として使われることもあるが、もっぱら現象界の諸事物それぞれがもつ個体としての本質を意味している。したがって、身体に対する「魂」、他者に対する「自己」、「それ自身」「個我」といった意味で使われることが多い。
ウパニシャッド思想の中心にあるのは、ブラフマン(梵)とアートマン(我)の同一化、すなわち「梵我一如(ぼんがいちにょ)」だと言われるが、これが意味しているのは、宇宙の原理と個体の原理の一体化ということに他ならない。
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第5講は、因果論の観点から扱うもので、神を超越し、神をも動かす原理としての「業(カルマ)」についての考察である。これは、この世界の背後に根源的一者のはたらきを想定する宇宙創造神話的な観念とは全く別の原理として、古代インドに出現し、後にはインドの普通的観念となった考え方である。
第6講では、再び根源的一者をめぐる問題に戻る。<あるもの>が、すべての多種多様な知覚可能な諸実体のうちに入り込んで、個として発現するという考えは、ヴェーダーンタ派の一元論へと発展する。サーンキア派によっては、物質と精神は区別され二元論となったが、ヴェーダーンタにおいては、存在と精神は、<あるもの>として常に一元であった。しかし二元論、さらには多元論へと傾くヴェーダーンタの思想もある。
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以上が講義全体の見取り図であるが、最後に本講のまとめとして、『チャーンドーギャ・ウパニシャッド』第6章の後半である第8-16節を見ておくことにしよう。
 (10)この世界の一切は、[すべて]この微細なもの(<あるもの>)をそれ自身(アートマン)としている。それは真実在であり、それは自己(アートマン)である。おまえはそれである。シュヴェータケートゥよ。
「おまえはそれである」という、後にヴェーダーンタ派の思想を代表する文句を含むこの文章が、第8節から第16節のすべての節においてくり返される。言わんとすることは、すでに前半において見てきた、原初の<あるもの>が、現象界のすべての事物・事象――人間存在を含む――に、その存在の本質(自己=アートマン)として入り込んでいるということである。そのことが、各節で印象深い喩えを伴いながらくり返されている。
ここにおいて、ヴェーダーンタ派のおける、最高原理ブラフマンアートマン同一化、つまり存在と精神の同一化という一元論の方向が定まったのである。