じじぃの「科学・芸術_230_日本人気質」

Japan Tourism & Vacations 2016 (HD) 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=N6LBBG7-MWM
日本 富士山、桜

2011年6月5日放送 NHK ETV特集 「暗黒のかなたの光明 〜文明学者 梅棹忠夫がみた未来〜」 より
「電気新聞」(2000年)に「地球文明」というタイトルで関西電力会社会長と梅棹さんの写真と対談した記事が映像に出てきた。
梅棹は電力会社トップと行った対談の中でも、疑問を投げかけています。
関西電力会社会長、「軽水炉は基本的にフェイルセーフといって事故が起きてもちゃんと止まるようにするという考え方なんです」
梅棹忠夫、「なるほど。しかしね、民俗学の立場から言うと、人間というのは本当に何をするか分からない生き物ですよ。いろいろ手を尽くして完全に勉めても、それを裏切るようなことが起こる」
想定外。自然だけでなく、人間こそがとりもなおさず、予想外なことを引き起こす存在だと梅棹は見抜いていました。
人間が生み出した放射能により、町や村が一瞬にして人の住めない場所に変わってしまう。「文明との競争」に敗れた代償としてはあまりにも大きな痛手です。

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『日本人のまっかなホント』 ジョナサン ライス/著、浜矩子、嘉治佐保子/訳 マクミランランゲージハウス 1999年発行
表の顔と裏の顔 より
日本人は行間を読む。もっと正確に言えば、言葉の裏を読む。”タテマエ(公の立場)”、つまり言葉で表現されたものの裏には、”本音(本心)”、すなわちその場その場で異なる漠然とした感情が隠れていることを、みんな知っている。洞察力のある人が”ホンネ”を見抜くのはそういうわけだ。ホンネとタテマエの区別ができない人がいたら、日本人はその人とは距離をおくようになる。承服できないことがあれば口を閉ざしている。ようするに、認めさえしなければ存在しないも同然なのである。
口に出せば人の気持ちを傷つけたり、諍(いさかい)になりかねないことは言わずもがな。内輪のことならなおさらだ。人の顔を立てるのはもっとも重要なこと。”顔をつぶす”のは犯罪にも等しい行為だし、どんなことがあっても避けなければならない。おかげで、他人のミスをカバーするために帳簿を改竄(かいざん)する、というようななんとも不可解な、あるいは違法な行為の際には、顔をつぶしてはいけないという動機が隠れていたりする。
包み隠さず打ち明けるのももってのほかだ。部外者にも知られてしまうなど、恥以外のなにものでもない。だから、なんでもかんでもさっさと人目から遠ざけてしまう。
昔は潔く自決をすれば名誉を回復できた。近ごろでは、陳謝をすればいいと思われている。だが、それはあくまで形式的な行為にすぎない。会社の取締役が深々と頭をさげ、陳謝して辞任の意を明らかにすれば、過去は清算されてしまう。まわりもくどくど問いただしたりしない。しつこく追及されないために謝ったのだ。ようするに、陳謝は罪を認める行為ではなく、自分の罪を免除して、非難する人の口を封じる手段なのである。
忘れるのはいいことだ より
日本人は、とりわけうつろいやすいものに心惹かれる。儚(はかな)いものは美しく、長持ちするものは美しくない。食べ物やファッションは、季節が変わるごとに変化する。きのうの真実など、風に運ばれた花びらのようなものだ。何世紀にもわたる歴史は尊重に値するが、人びとは伝統に縛られてはいない。当の歴史が、柔軟に生きることを説いているからだ。世の流れに身をまかせていきることの美しさ、いつまでも根にもたないことんお高潔さ、すべては儚いと知ることの賢さを。
日本の文学には、人間の脆弱さ、自然の儚さがふんだんに描かれている。自然の儚さの代表格は、桜の花。毎年春がめぐりくると、桜はえもいえぬ美しさで開花したあと、みごとに散って(微妙に白みかかったピンクの花は長くもたない)小さな花びらが地面を覆う。そうしてすぐに掃き集められたあとには痕跡ものこさない。桜の美しさは、それを見た人の心のなかだけのこるのである。
「水に流す」といえば、「橋の下の水(過ぎ去ったこと)」に近い言い回しだが、これは変化を避けられないものとして嫌でも受け入れようとする態度を表している。日本人は思い切るのが苦手というのではない。ものすごく感傷的なのだ。歌や小説や映画には、たいてい悲恋とか胸の張り裂ける想いが描かれている――思い切ることのむずかしさが。それでも、永遠につづくものなどなにひとつないと心の奥ではわかっているから、だれもが変化を受け入れる。
こうした心情を、日本人は都合よく、ビジネスに活かしている。たとえば、新製品が驚くべき速さで従来の製品に取って替わる。刷新、改良、学習、進歩に心を開いて熱心に取り組んだからこそ、”ニッポンの奇跡”があったのである。