じじぃの「人の死にざま_1057_梅棹・忠夫」

梅棹忠夫 - あのひと検索 SPYSEE
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特別展「ウメサオタダオ展」紹介ビデオ 動画 YouTube
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人類の未来 暗黒のかなたの光明 文明学者 梅棹忠夫がみた未来 動画 YouTube
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40年前の幻の名書。初公開★「人類の未来」梅棹忠夫、の目次紹介
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梅棹忠夫 ウィキペディアWikipedia)より
梅棹忠夫(うめさおただお、1920年6月13日 - 2010年7月3日)は、日本の生態学者、民族学者。国立民族学博物館名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授、京都大学名誉教授。 理学博士(京都大学、1961年)。従三位勲一等瑞宝章
【人物】
日本における文化人類学のパイオニアであり、梅棹文明学とも称されるユニークな文明論を展開し、多方面に多くの影響を与えている人物。京大では今西錦司門下の一人。生態学が出発点であったが、動物社会学を経て民族学文化人類学)、比較文明論に研究の中心を移す。
代表作『文明の生態史観』の他、数理生態学の先駆者(オタマジャクシの群れ形成の数理)でもあり、湯川秀樹門下の寺本英が展開した。さらに、宗教のウィルス説をとなえ、思想・概念の伝播、精神形成を論じた。その後も、宗教ウイルス説を展開し、後継研究もあり一定の影響を及ぼす。宗教ウイルス説は、文明要素(技術・思想・制度)が選択により遷移していくと言う遷移理論を柱にする文明の生態史観の一例であり、基礎のひとつである。
文明の生態史観 ウィキペディアWikipedia)より
『文明の生態史観』は、1957年に「中央公論」で発表された梅棹忠夫の論考で、著者の代表作。
【概要】
梅棹が1955年に行ったアフガニスタン、インド、パキスタンへの調査旅行の際に、感じたことを体系的にまとめ、文明に対する新しい見方を示したものである。前半部分にはその旅行の内容をつづりながら、そこで感じた文化性、または日本との差異、そしてそれぞれの文化における価値観が述べられている。後半部分ではそれに基づき、現代でもみられる、「西洋と東洋」という枠組みによって世界を区分することを否定し、第一地域と第二地域という区分で文明を説明した。
それによると、西ヨーロッパと日本は第一地域に属し、その間をなす、広大な大陸部分を第二地域とした。第二地域においては早い時間で巨大な帝国が成立するが、それらは制度などに問題を抱え、没落していくという。逆にその周縁に位置する第一地域においては気候が温暖で、外部からの攻撃を受けにくいなど、環境が安定している為、第二地域よりは発展が遅いものの第二地域から文化を輸入することによって発展し、安定的で高度な社会を形成できるとした。当時、この理論は大きな話題を呼び、半世紀以上経ても評価されている。1967年に中公叢書で刊行時には、序文を小松左京が寄せており、1974年に中公文庫で刊行時は、谷泰が解説を担当した

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2011年6月5日放送 NHK ETV特集 「暗黒のかなたの光明 〜文明学者 梅棹忠夫がみた未来〜」 より
「電気新聞」(2000年)に「地球文明」というタイトルで関西電力会社会長と梅棹さんの写真と対談した記事が映像に出てきた。
梅棹は電力会社トップと行った対談の中でも、疑問を投げかけています。
関西電力会社会長、「軽水炉は基本的にフェイルセーフといって事故が起きてもちゃんと止まるようにするという考え方なんです」
梅棹忠夫、「なるほど。しかしね、民俗学の立場から言うと、人間というのは本当に何をするか分からない生き物ですよ。いろいろ手を尽くして完全に勉めても、それを裏切るようなことが起こる」
想定外。自然だけでなく、人間こそがとりもなおさず、予想外なことを引き起こす存在だと梅棹は見抜いていました。
人間が生み出した放射能により、町や村が一瞬にして人の住めない場所に変わってしまう。「文明との競争」に敗れた代償としてはあまりにも大きな痛手です。

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文藝春秋 創刊90周年記念号
激動の90年、歴史を動かした90人 「梅棹忠夫 フィールドワークの目線」【執筆者】川勝平太静岡県知事) より
梅棹忠夫は20世紀後半の戦後日本を代表する知の巨人であった。代表作『文明の生態史観』は比較文明学の古典である。その書き出しはこうである――「一九九五年一一年一一日、私はインドから日本にかえってきた。羽田空港には、夜の九時半についた。カルカッタのダムダム空港をでたのは、その前日の夕がたの七時だった。そのあいだに、わたしは……」。
この出だしの文章にすでに梅棹の面目があらわれている。音読される漢字は平易なものをのぞいて漢字のままに書かれ、訓読できる漢字はひらがなで表記される。そのために梅棹の文章は漢字が少なく、ひらがなが多いので、中学生でも読める。また、日記のごとき書きぶりであり、同時に紀行記であり旅行記である。
梅棹忠夫の記憶力は抜群であった。それもそのはず、『梅棹忠夫著作集』の全体が梅棹の探険人生の精巧な日記であり紀行文であるといって過言ではない。人がもっとも忘れにくいのは自らの経験である。その経験が、好奇心にかきたてられた「探険」という主体的計画をもって積極的に求められ、強烈な学術的関心をもって整理され、推敲を経て記憶されたのが梅棹の膨大な著作群である。それは梅棹が強い意思をもって体験した物事の高度に洗練された記憶装置である。
そのような梅棹の作品を、ドナルド・キ―ン氏を感嘆させた日本の日記文学や、松尾芭蕉菅江真澄に連なる紀行文学の系譜に位置づけることもできる。ただ梅棹の日記・紀行が文学にとどまらないのは、人文・社会科学から自然科学の分野にいたる該博な知識に支えられており、科学性をもっていることだ。
梅棹の学問の方法はフィールドワーク(現場での観察)である。ユーラシア大陸での豊かなフィールドワークをもとに梅棹は、大陸で繰り広げられた歴史のパターンを簡潔なデザインにまとめあげた。『文明の生態史観』所収の紀行文「東南アジアの旅から」で提示されたA図・B図である。その2図は梅棹の天才を示して余りあり、きわめて美しい。ユーラシア各地にかかわる万卷の書を読んでも、そこから得られる知識は、2図の構図のなかに収まる。広大なユーラシア大陸も悠久の歴史が、遊牧民と農耕民との地域間のダイナミズムであることを2枚の図で分からせてしまうデザイン力は梅棹ならではの本領である。
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マルクス唯物史観に切り込んだ『日本文明と近代西洋』。返す刀で生態史観の限界を指摘した『文明の海洋史観』の拙著が梅棹の知るところとなった。「面白いな!」との評価を得て、「いざ対談を」となったとき、すでに梅棹氏は失明されていた。「自分の目で見る」ことが学問であった梅棹氏の悲嘆はさぞかしと拝察したが、そうした素ぶりはどこふく風、晩年は「見られる存在」になった梅棹氏であったが、お目にかかったときはつねに、あたりを払う穏やかがあり、その居ずまいは仏像のように美しかった。日本の風土に合った大輪の学問の花を愛でるように、私は、梅棹氏の話を傾聴した。花が舞い、そして散った。気品のある橘の木にも似た梅棹忠夫の人格の記憶は、あの天才の作図とともに、消えることはない。

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