じじぃの「人の死にざま_1710_ラビンドラナート・タゴール(詩人)」

タゴール

タゴールの詩
ラビンドラナート・タゴール
1861年5月7日 7人兄弟 末っ子。家は10世紀以来の名家で、本来はタークルという呼び名。父は、近代インドの父と見られるラームモーハンローイの弟子で、後にその跡をつぎマハーリジ(人聖)と呼ばれた聖者。
タゴールは、近代インドの最高峰の詩人であり、思想家。アジアで始めてのノーベル文学賞を受賞。詩聖として尊敬される他に、音楽・戯曲・小説・絵画・思想・哲学など、あらゆる面で優れた才能を開花させる。その深い智恵と高い精神性は、多くの人達に多大な影響を与えた。自然教育にも力を注ぎ、シャンティニケタン(平和の郷)に、タゴール国際大学を設立する。インド国歌・バングラディッシュ国歌の作詞作曲者としても名高い。
http://india.hamacco.net/tagore/poem.html
『教科書が教えない歴史〈4〉』 藤岡信勝自由主義史観研究会/編 産経新聞社 1997年発行
「精神を尊ぶ」と感じたタゴール (一部抜粋しています)
 海の岸辺夜は明けて/血の如き雲の曙に/東の小鳥声高く/名誉の凱旋を歌ふ
これは日露戦争に勝利した日本を称えた詩で、日本の短歌をまねてベンガル語(インドの方言)で作られています。作者はインドの詩人、ラビンドラナート・タゴールです。
タゴールは日本では岡倉天心と親交があったことで知られています。また、東洋人として初めてノーベル文学賞を受賞したことは有名です。タゴールは世界の国々を旅して紀行を残しています。
それらの中でも、『日本紀行』は名文として知られています。
タゴールは、祖国インドをはじめアジアの国々が欧米列強の支配下の中で、明治維新を起こし独立を守った日本にあこがれるようになります。そして、1916年(大正5年)日本に旅立ちました。
日本紀行』には、タゴールが、はじめて日本で見たものや体験したことの感動が綴られています。それらは、茶道、生け花、俳句、能楽、そして家屋など日本文化を代表するものです。
その中で、日本の子供をみてこんなことが書かれています。「こんな大勢の子供たちが、通りといわず川岸といわず、いたるところで遊んでいるのを、わたしは他国で見たことがない。その理由は、日本人が花を愛(め)でるように、子供たちを愛しているからだ、とわたしは思った」
女性の着物についてはこう書きます。
 「日本女性の服装に、自ら女性であることを強調しようとする試みは見あたらない。他のほとんどの国では、女性の服装に、男性の目を引こうとするような、何らかの態度が見えすいている。この国の女性の着物は美しくはあるが、着物には肉体をほのめかすような企てがほとんど見当たらない」
このように、タゴールは、女性の着物や、日本の舞踏をみて、日本文化の本質は、肉体的・物質的なものよりも、より精神的なものを喜ぶことだと、書いています。
また、タゴールが日本に感動したのは、そうした日本の生活文化に対してだけではありませんでした。明治維新以来、いち早く西洋の文明を取り入れ、それを我がものとしていた日本人への驚きがありました。しかし、タゴールは単に日本の西洋化を喜んだわけではありません。
日本での講演の中でタゴールは、日本人が西洋風な生き方の習慣をして、日本の過去を忘れてしまえば、日本文化の源泉を失うことになると指摘しています。さらに「日本にとって、それにもまして危険なのは、…西洋文明の原動力を、日本自身の原動力として受け入れること」と述べました。これは、当時の日本が生活文化の面だけでなく、国家の政策としても欧米の模倣をしていたことに対する警告でした。また、別の講演でタゴールは日本人の聴衆にこう語りかけました。
 「日本はアジアのなかに希望をもたらした。われわれはこの日出る国に感謝を捧げるとともに、日本には果たしてもらうべき東洋の使命がある…。日本の偉大な思想がすべての人に顕現するようにしようではないか」。タゴールは、欧米の支配下にあるアジアに、日本人の目が向くことを願っていたのである。