じじぃの「人の死にざま_1707_陸奥・宗光(政治家・外交官)」

【中学歴史】5-14 日清戦争と三国干渉 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=465gykXPNQo
陸奥宗光 コトバンク より
陸奥 宗光(むつ むねみつ、1844年8月20日 - 1897年8月24日)は、明治の外交官・政治家。
紀州藩(現在の和歌山県)出身で、坂本竜馬海援隊に加わって行動をともにした。不平等条約の改正に尽くす一方、日清戦争を外相として主導。すご腕を評価して外務省には今も銅像が立つが、日清戦争で虐殺事件があった中国・旅順の記念館では悪者として肖像が飾られている。

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『教科書が教えない歴史〈4〉』 藤岡信勝自由主義史観研究会/編 産経新聞社 1997年発行
冷静に三国干渉に対処した陸奥宗光 (一部抜粋しています)
東京・霞が関にある外務省の構内には、歴代外相の中でただ一人の人物が選ばれて銅像となっています。それは、日清戦争時の外部大臣だった陸奥宗光です。
幕末の安政年間、幕府がアメリカなど欧米列強と不平等条約を結んだことはよく知られています。では、この不平等条約を解消し、日本が初めて欧米と対等な条約を結んだのはいつのことでしょうか。
答えは1894年(明治27年)、イギリスとの間に締結された日英通商航海条約というのがそれです。この条約を結んだのが陸奥でした。
この年の2月、朝鮮の南部に「東学党の乱」という一揆が勃発し、首都漢城(ソウル)にせまる勢いをみせました。6月、清国は朝鮮政府の要請によって反乱鎮圧のために若干の軍隊を派遣する旨の公文を、駐日公使を通じて日本政府に手渡します。
清の出兵は宗主国として属邦を保護するための当然の行動であるというのです。ところが、1876年(明治9年)に結ばれた江華条約(日清修好条規)の第1条には、朝鮮は独立国であると明記されていました。陸奥はただちに、「朝鮮が清国の属邦であることは承認できない」と反論し、日本政府は公使館と居留民保護のために出兵を閣議で決定しました。
それまで、清国は東アジアの力の実体と思われていました。一方、アヘン戦争でその清国をやぶったイギリスは、清国を中心とする東アジアの秩序をそれなりに認めていました。しかし、イギリスはしだいに清国の実力に疑問を持つようになりました。そして、日本の国際的地位がしだいに向上してきていることを認めるようになりました。
そこで、条約を守らない清国よりも日本を欧米並みの独立国として扱い、これに加担することが、将来の極東の支配に有利だと考えるようになりました。陸奥がこうしたイギリスの思惑を読み取って条約改定にこぎつけたのは、まさに日清両国が開戦する直前でした。
さて、日清戦争の戦況はイギリスの予想通りに進展し、清国の敗勢が明らかになりました。日本政府は列強の干渉を避けるため1日も早い講和条約を望みました。ところが、戦勝に酔った日本国民は、過大な要求をして政府当局者を困らせたのです。
その要求の中には、清国のロシアとの国境近くにある遼東半島を割譲することまでふくまれていたのです。
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こうして日本と清国は、遼東半島割譲をふくんだ講和条件下で下関条約を締結しました。その結果、陸奥の予想どおり遼東半島の割譲に対しては、ロシア、ドイツ、フランス3国のクレームがつきました。これを「三国干渉」と言っています。
しかし、陸奥はロシアの意図を的確に読み、日露の国力の差を冷静に見きわめ、手際よく事後処理をしました。このあと、遼東半島はいったん清国に返還されましたが、すぐにロシアが租借することになったのです。
欧米先進国に追いついたばかりの日本の新たな試練は、10年後の日露戦争となってあらわれてくるのです。