じじぃの「人の死にざま_767_淀君」

淀殿 - あのひと検索 SPYSEE
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大坂城 炎上 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=oTk46334rWE&feature=related
豊臣秀頼淀殿自刃の地跡・大阪城公園 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=FSDzjWiGMV8
淀君 歴史人物いちらん
http://www7a.biglobe.ne.jp/~gakusyuu/rekisizinbutu/yodogimi.htm
歴史秘話ヒストリア 「戦国悪女伝説 〜大坂の陣 淀殿の戦い〜」 2011年11月30日 NHK
【キャスター】渡邊あゆみ
大河ドラマ江〜姫たちの戦国〜」」の中心人物のひとり・淀殿淀殿は、これまで芝居や時代劇などで豊臣秀吉を惑わし豊臣家を滅亡に導いた“悪女”とされてきた。しかし最新の研究からは、戦に倒れた両親の菩提(ぼだい)を弔い、妹たちを養育し、我が子を守って豊臣家を必死に切り盛りした、ひたむきな女性という面が明らかになってきている。戦国乱世に翻弄されながらも雄々しく生きたヒロイン・淀殿の真実と悲劇の物語を送る。http://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/106.html
淀殿 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
淀殿は、戦国時代(室町時代末期)から江戸時代初頭の女性。豊臣秀吉羽柴秀吉)の側室。 位階は従五位下とされるが、諸説あり。本名は 浅井茶々および浅井菊子。浅井三姉妹の一人。
【生涯】
天正16年(1588年)頃、秀吉の側室となる。秀吉は茶々の母・市に憧れていたとされ、三姉妹の中で母の面影を一番よく受け継いでいた長女の茶々を、側室に迎えたという。
天正17年(1589年)、捨(鶴松)を生む。この懐妊を喜んだ秀吉から山城国淀城を賜り、以後「淀の方」と呼ばれるようになった。 鶴松は天正19年(1591年)に死亡するが、文禄2年(1593年)に拾(秀頼)を生み、秀吉の死後は秀頼の後見人として大蔵卿局・饗庭局らを重用して豊臣氏の家政の実権を握った。
関ヶ原の戦いの後に江戸に武家政権を構築し始めた家康と対立し、臣従を求める秀頼の上洛要求などを拒否する。慶長19年(1614年)と慶長20年(1615年)の大坂の役で徳川勢に完敗し、大坂城落城に際して秀頼や大野治長らと共に自害したとされる。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
淀君(よどぎみ) (1567-1615) 48歳で死亡。 (一部抜粋しています)
元和元年年5月8日正午ごろ、大阪城山里曲輪(やまざとぐるわ)の糒蔵(ほしいぐら)で、みずから火をかけて、秀頼らとともに炎の中で死んだ。助命運動があったにもかかわらず、家康側から鉄砲を打ちかけ、自殺に追い込んだという説もある。
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一世の美姫(びき)淀君とその騎士真田幸村は、同年に生まれ同年に、すなわち同じ年齢で死んだのである。

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