じじぃの「ガリバー旅行記の舞台は日本?本当はどうなんだろう」

Gulliver's Travels Movie Trailer 2 Official (HD) 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=7OT0ER77SGE
ガリバ-旅行記と日本 
ガリバー旅行記」の中で、主人公のガリバーが訪れる国の内、唯一実在の国が日本です。
他はすべて架空の国であるのに何故スウイフトは「日本」を入れたのでしょうか。
http://www.cityfujisawa.ne.jp/~m-itazu/japan.html
ガリバー旅行記』の地図に豊後は載っている おおいた暮らし
世界中の人々が知っているジョナサン・スウィフト作の『ガリバー旅行記』(1726年刊)の構成は、「第一篇 リリパット(小人国)渡航記」・「第二篇 ブロブディンナグ(大人国)渡航記」・「第三篇 ラピュタバルニバービ、グラブダブドリッブ、ラグナグおよび日本渡航記」・「第四篇 フウイヌム国渡航記」と、実在の国としては唯一日本が出てくる。そして日本の地図には、豊後島が九州全体を指すかの如く載っている。
http://www.iju-oita.jp/modules/rensai/index.php?content_id=27&page=print
3D ガリバー旅行記 (日本語吹替版)の上映スケジュール
http://www.movix.co.jp/app/SMTT000000026_M130DJ1.html
ガリバー旅行記 ウィキペディアWikipedia) より
ガリバー旅行記は、アイルランドの風刺作家ジョナサン・スウィフトにより、仮名で執筆された風刺小説である。原版の内容が大衆の怒りを買うことを恐れた出版社により、大きな改変を加えられた初版が1726年に出版され、1735年に完全な版が出版された。
【第一篇 リリパット渡航記】
1699年5月4日〜1702年4月3日
リリパット国とブレフスキュ国は、ガリバーによる空想の冒険譚の第一篇に関わる国々である。両国は南インド洋にあり、約800ヤードの海峡を挟んで隣接している。両国の全国民は常人の約12分の1の身長しかない小人で、彼らの関心事も小さく取るに足らぬものであるが、スウィフトの時代の典型的なイギリス国民の様に、比較的道徳には公正であり、神を畏れ、正直である。
【第二篇 ブロブディンナグ渡航記】
1702年6月20日〜1706年6月3日
第二篇では、ガリバーはあらゆる物が巨大な、巨人の王国ブロブディンナグ国に上陸する。ここでの関係はリリパット国でのガリバーの冒険とは正反対である。他の全国民が大きい一方で、今やガリバーは小人である。ガリバーを捕まえた身長60フィート(約18メートル)の農夫は、最初はガリバーをサーカスの見世物の様に見せて回り、次いでブロブディンナグ国の王妃に売り飛ばす。王妃はガリバーに大いに愛着を寄せ、住居として人形の家のように家具を備えた木箱を与えるなどして、ある種の愛玩動物か人形のようにではあるが、非常によく待遇する。ガリバーは玩具として扱われている事に気付いておらず、リリパット国への渡航記での様に、彼自身は実際の境遇より遥かに重要な存在であると考えている。
【第三篇 ラピュータ、バルニバービ、ラグナグ、グラブダブドリッブおよび日本への渡航記】
1706年8月5日〜1710年4月16日
第三篇を占めるラピュータ、バルニバービ、ラグナグ、グラブダブドリッブおよび日本は、学究生活と科学とその他の諸々の事柄を風刺している。ラピュータで扱われているテーマは王立協会への痛烈な風刺と、更にはアイザック・ニュートンへの皮肉であったと広く考えられている。
      ・
1709年5月21日、ラグナグを出航して日本の東端の港ザモスキ(横須賀の観音崎)に着き、日本の皇帝に江戸で拝謁を許されたガリバーは、オランダ人に課せられる踏絵の儀式を免除してほしいと申し出、「踏み絵を躊躇するオランダ人など初めて見た」と怪訝な顔をされるもラグナグ王の親書などの効果でなんとか了解される。ガリバーはナンガサク(Nangasac 長崎)まで護送され6月9日オランダ船で出港しイギリスに帰国する。
【第四篇 フウイヌム国渡航記】
1710年9月7日〜1715年12月5日
最終篇であるフウイヌム国渡航記は、平和で非常に合理的な社会を持つ、高貴かつ知的な馬の種族に関して述べた物語である。馬の姿をした種族フウイヌムは戦争や疫病や大きな悲嘆を持たず、エリート主義的かつ官僚的で創造性に欠けた、厳密な種族的カースト制度を保持している。この制度は話法や風習、外見において、イギリスの貴族制を風刺している。

                                          • -

『負けるのは美しく』 児玉清/著 集英社 2005年発行
「忘れられ○過去」 (一部抜粋しています)
先だって北海道の函館で行われた、NHK・BS2の「週刊ブックレビュー」の公開録画の特集ゲストに、小沢昭一さんをお迎えした。全6巻の『小沢昭一百景 随筆隋談選集』の刊行を祝してお招きしたのだが、沢山面白いお話を伺った中で、なにやら共通する思いで深く僕の心に響いたのは、小沢さんはあれだけ沢山の主演映画を、それも当時大変話題になった問題作を含めて撮っていたのに、すっかり忘れてしまっている主演映画があって、改めて友人に見せられて、俺こんなことやっていたんだと、びっくりした、というお話であった。
いかにも小沢さんらしいなあと大きく笑ってしまったのだが、いくらなんでも主演した映画を忘れてしまうことなんて、ないんじゃないですか、それは小沢さん一流のジョークでは、といいかけて思わず、言葉を呑みこんでしまった。
      ・
ところで、話はここで別な方向へ進むのだが、記憶に残っているどころかもうとっくの昔に終わってしまった仕事なのに、いつまでもいつまでも心の奥に深く残っていて、それも折にふれ何の脈略もなく突如頭に浮かんできて、知らぬ間にそのことを考えている、といったことが僕にはいくつかあるのだ。そのひとつが、「テレビムック」という日本テレビの番組のレポーターというか謎解き人として、ジョナサン・スウィフトの『ガリバー旅行記』の不思議といったものを取り上げたときのことなのだ。
もう20年近くも前のことなので、番組の詳しい構成やプロットはほとんど記憶の彼方に飛んでしまっているのだが、いつも頭に浮かぶ最初の光景が、スウィフトの住んでいたアイルランドの首都ダブリンにあるトリニティ・カレッジの昔ながらの校門のところに立って、大学から下校してくる学生を誰彼なく掴まえては、『ガリバー旅行記』のペンギン版を見せながら、ガリバーの旅の最終の目的地がどこであるかを知っているか、尋ねたときのことだ。正解は、この本の中でたったひとつ実名で出てくるジバング、つまり我が国日本なのだが、沢山の学生に質問しても誰一人正解者はいなかったのだ。なぜか、日本だけが実名で登場して、あとはブロブディンナグラピュタといったように、すべての国名はoutlandish、架空の国となっているのだ。これは僕もまったく同様だったのだが、『ガリバー旅行記』は子ども向けの絵本でだけで知っている人がほとんどで、真の『ガリバー旅行記』に関しては、原本を読んでいない人が圧倒的に多い、ということなのだ。つまり、絵本の『ガリバー旅行記』と原本とではまったく違うということを知らない人が沢山いるということで、これほどまでに原本の小説が誤解されている本も珍しいということになる。
校門で学生たちにインタビューしたときに、愕然としたのもスウィフトがかって住んでいた町の大学の学生たちですら、ほとんどがちゃんと原本を読んでいないことにショックを受けたのだ。このときの光景がいつも頭に脈絡なく浮かんでくるのだが、続いて頭の中でフラッシュするのが、リーフデ号で日本に漂着した、のちの三浦按人ことウィリアム・アダムズが海岸で日本人と初めて遭遇したときの僕の想像映像なのだ。未知の国に漂着したアダムズが飛び出してきた大ぜいの小さな体格の日本人をみたときの印象は、どうだったのか。ガリバーが小人国に漂着したのと同じだったのではないか。話はいきなり飛躍してしまったが、実はスウィフトが『ガリバー旅行記』を書くにあたって、資料としてアダムズがイギリスの妻に日本から送った数々の手紙(御存じのようにアダムズは三浦按針となって徳川幕府に仕え、結局故国イギリスへと変えることなく日本で妻をめとり、日本でその生涯を閉じた訳だが)や、17世紀に日本に滞在したエンゲルベルト・ケンペルの『日本史』を参照にしたに違いないことを証明する事実がいくつもあるのだ。もっと飛躍させれば、按針こそガリバーのモデルではないのか、ということなのだ。アカデミックな世界で葉、決して受け入れられないような仮説をもとに、アイルランド、イギリス、そして日本の三浦按針の所縁(ゆかり)の地を訪ねた番組の旅は、奇書ともいえるスウィフトの『ガリバー旅行記』の数々の不思議さが、ウィリアム・アダムズと日本と渾然一体となって俄かにリアリティを持って僕の心のなかで燦然と輝やきはじめたのだ。理屈や真実はともかく、こうした番組の仕事は決して忘れることなく、絶えず心に刺激と興奮と高揚をもたらすものなのだと改めてつくづく思う今日此頃なのだ。

                                          • -

どうでもいい、じじぃの日記。
先日、図書館のなかで本巡りをしていたら、児玉清著『負けるのは美しく』という本があった。
「負けるのは美しく」か。書いているのは俳優の児玉清さんだ。
本をぱらぱらめくってたら「ガリバー旅行記」のことが書かれている。
20年以上前に、「テレビムック」というテレビ番組で「ガリバー旅行記」を取り上げたらしい。
イギリス人の航海士、ウィリアム・アダムスはオランダ船団に加わって東洋貿易のための遠洋航海に出た。5隻の船団はマゼラン海峡を越え、太平洋を渡るうちリーフデ号1隻のみとなり、命からがら大分県臼杵の海岸にたどり着いた。
慶長5年――秋には関ヶ原役の起こった年――3月16日、豊後海岸に漂着したオランダ船リーフデ号に乗っていた36歳のイギリス人の水先案内人ウィリアム・アダムスは、家康の外交顧問として召抱えられ、三浦按針という名と日本の妻を与えられ、ジョゼフという男の子とスザンナという女の子も生まれた。
その後平戸にひらかれたイギリス商館にあって、元和5年春には安南などへ航海したのに、その秋ごろから病床につき、翌年4月24日に平戸で死んだ。病名や病状などは不明。
ともあれこのイギリス人は約20年日本に滞在した間に、関ヶ原役、大阪の役、家康の死などを目か耳にしたことになる。
彼の残した財産は、遺言により当分されて、イギリスに残した妻子と、日本にいる妻子に贈られた。
                          山田風太郎著『人間臨終図巻 上巻』 三浦按針より
1709年5月21日、ラグナグを出航して日本の東端の港ザモスキ(横須賀の観音崎)に着き、日本の皇帝に江戸で拝謁を許されたガリバーは、オランダ人に課せられる踏絵の儀式を免除してほしいと申し出、「踏み絵を躊躇するオランダ人など初めて見た」と怪訝な顔をされるもラグナグ王の親書などの効果でなんとか了解される。ガリバーはナンガサク(Nangasac 長崎)まで護送され6月9日オランダ船で出港しイギリスに帰国する。
                          スウィフト著『ガリバー旅行記』第三篇より
モネやゴッホが遠い極東の国、日本に憧れて絵を描いたように、スウィフトもウィリアム・アダムス(三浦按針)を通して遠い極東の国、日本に憧れ、『ガリバー旅行記』を書いたのだろうか。
「実はスウィフトが『ガリバー旅行記』を書くにあたって、資料としてアダムズがイギリスの妻に日本から送った数々の手紙(御存じのようにアダムズは三浦按針となって徳川幕府に仕え、結局故国イギリスへと変えることなく日本で妻をめとり、日本でその生涯を閉じた訳だが)や、17世紀に日本に滞在したエンゲルベルト・ケンペルの『日本史』を参照にしたに違いないことを証明する事実がいくつもあるのだ」
ウィリアム・アダムスとはどんな人物だったのだろう。
スウィフトはどんな日本を想像して『ガリバー旅行記』を書いたのであろうか。