じじぃの「人の死にざま_576_ロバート・キャパ」

ロバート・キャパ - あのひと検索 SPYSEE
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Robert Capa - Spanish Civil War 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=yMeXO2EJh7U
Robert Capa 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=PDiQZmatG6Q&feature=related
崩れ落ちる兵士 写真

Dデー 写真
http://ganref.jp/magazine/expert/images/chap1/ph_024_01.jpg
ドイツ協力者 写真
http://www.toride.com/~digxwa/xwablogimage/pc_sharutoru19440818.jpg
Robert Capa Google 検索
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NHKスペシャル 「沢木耕太郎 推理ドキュメント運命の一枚〜"戦場"写真 最大の謎に挑む〜」 (追加) 2013年2月3日
戦争報道の歴史の中で、最大の謎と言われる一枚の写真がある。「最も偉大な戦場カメラマン」と称されるロバート・キャパ(1913 - 54)が、スペイン内戦のさなかに撮った「崩れ落ちる兵士」である。銃弾によって身体を撃ち抜かれた兵士の「死の瞬間」を捉えたとされるこの写真は、フォトジャーナリズムの歴史を変えた傑作とされ、それまで無名だったキャパを時代の寵児に押し上げた。だが、この「奇跡の一枚」は、真贋論争が絶えない「謎の一枚」でもあった。ネガは勿論、オリジナルプリントもキャプションも失われており、キャパ自身も詳細について確かなことは何も語らず、いったい誰が、いつ、どこで撃たれたのか全く不明なのだ。
キャパに魅せられた沢木耕太郎氏は、20年近くこの謎を追い続け、今意外な「真実」にたどり着こうとしている。それは、自殺願望があると噂されるほど危険な最前線に赴き、ついに戦場で命を落とすことになったキャパの「人生の秘密」を解き明かすものでもあった。
ロバート・キャパの「崩れ落ちる兵士」の写真は戦場ではなく演習場であり、しかも、この写真の撮影者は恋人のゲルダがローライで撮ったもので、キャパの写真でないと語る沢木耕太郎の分析は衝撃的である。
http://www.nhk.or.jp/special/detail/2013/0203/index.html
ロバート・キャパ ウィキペディアWikipedia)より
ロバート・キャパハンガリー生まれのアメリカの写真家。
本名はフリードマン・エンドレ・エルネー。ハンガリー人は姓が名前の先に来るため、ハンガリー語の発音に近い「カパ・ローベルト」と表記されることもある。ユダヤ系。同じく写真家で、1974年にICP(国際写真センター)を創設したコーネル・キャパは弟。
スペイン内戦、日中戦争第二次世界大戦のヨーロッパ戦線、第一次中東戦争、および第一次インドシナ戦争の5つの戦争を取材した20世紀を代表する戦場カメラマン、報道写真家として有名である。ピカソら多方面の芸術家たちとの幅広い交際も有名。
【生涯】
1913年10月22日、ハンガリーブダペストに生まれる。両親は洋服店を営んでいた。
1936年7月のスペイン内戦勃発と共に従軍し、9月にコルドバで頭部を撃ち抜かれ倒れる瞬間の人民戦線兵士を撮った「崩れ落ちる兵士」を撮影(フランスのグラフ雑誌VUに発表される、と同時に自身の本名では、英語表記にした際、読みにくいことなどから、名前をロバート・キャパに変えたのも、この時期とされる)。1938年には日中戦争を取材。1939年にアメリカ合衆国に移り、翌年に永住権を得る。
1944年にはノルマンディー上陸作戦を取材。第1歩兵師団第16連隊第2大隊E中隊に従軍した。ドイツ軍と連合国軍が入り乱れる中100枚以上の写真を撮影したが、現像の際に、興奮した技師(後に『ライフ』で活躍するラリー・バローズであると言われたが、実際にはジョン・G・モリスという技師によるものである)が溶剤を加熱しすぎてしまったためにフィルムが溶け、まともな写真として残っているものは11枚しかない。これらの写真は「キャパの手の震えによるボケ」として発表され、これは後に彼の写真著書『ちょっとピンぼけ』のタイトルにもなっている。8月にはパリ解放を撮影。第二次大戦終了後1946年にアメリカ市民権を獲得。1947年にアンリ・カルティエ=ブレッソン、デヴィッド・シーモアジョージ・ロジャーらと国際写真家集団「マグナム」を結成。1948年には第一次中東戦争を取材した。
1954年4月に写真雑誌「カメラ毎日」の創刊記念に日本に呼ばれる。東京で「ライフ」誌から第一次インドシナ戦争の取材依頼を受け北ベトナムに渡る。5月25日、午前7時にナムディンのホテルを出発、タイビンにあるドアイタンという陣地に向かう。午後2時30分ころドアイタンに到着。午後2時55分にドアイタンから1キロの地点にある小川の堤防で地雷に抵触、爆発に巻き込まれ死亡した。その際カメラを手にしたまま死んでいたという。
ロバート・キャパ賞】
キャパにちなんで、報道写真を対象としたロバート・キャパ賞が、Overseas Press Clubによる、Overseas Press Club Awardsの1部門として設けられている。
日本人では1970年に沢田教一カンボジア内戦を取材中に狙撃され死亡した後に受賞している。

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朝日新聞社 100人の20世紀 上 1999年発行
ロバート・キャパ (1913-1954) 41歳で死亡 【執筆者】山本健一 (一部抜粋しています)
「味方の陣地にもどる。イチかバチかやってみる」
孤立したスペイン共和国民兵は銃を右手に持ち、塹壕(ざんごう)から飛び出した。キャパもすぐあとに続く。白く枯れた野草が生い茂るだけの丘の頂上付近。身を隠す物はない。
フランコ反乱軍の銃が火を噴いた。兵士は正面から頭を撃ち抜かれ、衝撃で腰を抜かすように倒れた。キャパは転がりながら、本能的にシャッターを切っていた。スペイン内戦が始まり、約2ヵ月たった1936年9月5日のセロムリアーノ村。共和国軍とフランコ軍との間で、戦闘は朝6時から夕方6時半まで続いた。その中で一人の民兵が死んだ。
生と死を一瞬にとらえた、奇跡のような写真。のちに『ライフ』誌に掲載され、戦争報道写真の誕生を世界に告げた。「崩れ落ちる兵士」の撮影は、このように説明されてきた。
しかし、キャパのヤラセだ、という指摘があとを断たなかった。
根拠は2つ。1つは、この直前に撮られている写真だ。塹壕を飛び越えたり、銃を構えている兵士たちの表情が、のどかすぎて、演習のように見えること。この中には当の「崩れ落ちる兵士」もいる。
もう1つは、同じ場所で連続して撮られた写真だ。別の兵士が足を撃たれたようで、横に倒れている。同じ場所なのに、なぜ先に倒れた兵士の体が写っていないのか・・・。
96年9月、スペイン人郷土史家マリオ・ブロントスの調査が、英『オブザーバー』紙によって明らかにされた。倒れた兵士の身元が確認され、その日その船上で戦死していることは間違いない、というのだ。
調査によると、こうである。
開襟シャツと作業ズボン姿だから民兵に間違いない。革ベルトと弾薬帯のデザインが、アルコイ地方から編成された連隊の装備と同じなので、アルコイの民兵にしぼり込んだ。内戦の公式記録サラマンカ文書を調べると、当日セロムリアーノ戦線で戦死したアルコイの民兵はフェデリコ・ボレル。ガルシア青年だけだった。親族にキャパの写真を見せると、本人に間違いないといった・・・。
その経緯を本にまとめたのが95年。その直後、ブロトンスは亡くなった。
アルコイへ飛んだ。
「背が高く、あごの張った顔。キャパの写真を観た時、一目で夫のフェデリコだとわかりました」
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キャパの生涯は、戦争を憎み、戦争によって生かされ、死んだともいえる。
ユダヤ人のキャパは、ファシズムを終生、敵とした。
第一次世界大戦勃発の前年、ブダペストの裕福な注文服店に生まれた。本名はフリードマン・エンドレ・エルネー。
政府のユダヤ人への弾圧を逃れてベルリンへ行ったのは31年。新聞記者を目指したが、言葉の壁は厚かった。キャパはのちに語っている。
「この言葉ならという自信を持てるものがなかったので写真を始めた。写真は各国共通の言葉になった。世界の国や人種の間で理解を深めるには一番いい方法だと思う」
ナチスが台頭し、33年にはドイツを脱出、パリで小さな写真通信社に勤めた。通信社と値上げ交渉をするため、架空の名前「ロバート・キャパ」をつくり上げた。敬愛する映画監督の名前に似せた。
36年にスペイン内戦が始まると、恋人の写真家ゲルダと共に戦地に入った。ここで撮った「崩れ落ちる兵士」により、戦争報道写真家キャパが誕生したのである。
38年には「世界で最高の報道写真家の一人」(『ライフ』)、「世界の偉大な写真家の一人」(『タイム』)と呼ばれた。
もう1枚の戦争写真がある。
作品名は「Dデー」。44年6月6日、仏ノルマンディー海岸に連合軍が上陸した。キャパも同海岸の「オマハビーチ」を攻撃する部隊に従軍した。早朝、上陸中の一兵士を撮った粒子の荒い少しブレた写真は、戦闘の激しさを生々しく伝え、Dデーでは最高の写真とされた。
ニューヨークで、伝記作者のウイーランさんと、キャパの弟である写真家コーネルさんに会った。
「Dデーの写真には、平凡な人間が、このような状況に置かれたときに見せる強さと緊張感がある。54年前の写真なのに、昨日のように感じされる。現実を超えて、人間の状況を伝えているからでしょう」
写真の兵士は米アトランタ郊外に住むエドガード・リーガンさん。自宅で病気療養中だった。「22歳だった。重装備なのでおぼれそうになった。上陸地点に写真家がいるなんて気がつかなかった」
戦闘の写真ではない。しかし、戦争を通して人間の本質を射抜いた1枚がある。パリに近いシャルル路上で撮った「ドイツ協力者」だ。
ドイツ兵の子供を産んだ女性とその母親が、警察署の中庭で丸坊主にされ、町の中をさらし物にされながら留置場に連れて行かれる。女性の目は、しっかりと抱えた赤ん坊だけを見つめている。
2人をあざけり笑う群衆。しかし、彼女らをしんに罰せられる人は、取り囲んだ群衆の中に何人いるのだろう。と写真は問いかける。自分は本当にドイツに協力しなかったか。いけにえを欲しがる人間のあさましさを、キャパの目は暴く。
シャルトルに住む元レジスタンス闘士のロジュ・ジョリーさんは首を振った。彼は丸坊主にされた女性の知人で、当日、警察署の中庭のその場所にいた。
「2人は密告者、隣人4人が密告で連れ去られ、うち2人は帰らなかった。それは事実です。きちんとした裁判を受け、10年間の追放になった。当然です」
しかし、写真右方の、笑う警察官は醜悪だ。警察こそドイツ軍に協力していたのだから。
キャパは54年4月、毎日新聞社の正体で日本を撮影旅行した。世話をしたのは『カメラ毎日』編集部の金沢秀憲さんだった。
旅行中、金沢さんは「崩れ落ちる兵士」のことを聞いた。しかし、「戦争なんていやだ。思い出すのもいやだ。話をするのもいやだ」と答えるだけだった。
桜の季節だった。その下で働く人々の風景に平和を感じたのだろうか。彼は満足し、「あとは何もいらない」と語った。
しかし5月2日、『ライフ』の依頼で羽田からインドシナ戦線に飛び立った。
「心のきれいな立派な男でした。行きたくなかったと思うが、今日行くと突然いう。戻ってくるからと下着を置いていった」
3週間後の5月25日午後3時、仏領インドシナ(現ベトナム)の農村で、地雷を踏んで死んだ。

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