じじぃの「人の死にざま_654_今・東光」

今東光 - あのひと検索 SPYSEE
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今東光 「極道辻説法」&「和尚の遺言」 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=ycdeFgpRQCA
河内カルメン 鈴木清順 60年代作品 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=Ueji759sW3w
よみがえる作家の声 今東光「平泉中尊寺 2002年11月13日 NHK
【主な出演者】今東光広瀬修子大出岳史
NHKが録音・保存してきた作家の自作朗読を作品にまつわる映像や作家ゆかりの場所とともに紹介。その人物像と作品の世界をよみがえらせる。豪快な人柄と歯に衣着せぬ物言いから毒舌和尚と呼ばれた今東光の別の一面、仏の道に精進し中尊寺の再興にとりくんだ半生を、自らの随筆とともに紹介する。
http://archives.nhk.or.jp/chronicle/B10002200090211140030168/
今東光 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
今東光は、天台宗僧侶、小説家、参議院議員新感覚派作家として出発し、出家後は住職として住んだ河内や津軽・平泉など 奥州を題材にした作品で知られる。
作家・評論家で、初代文化庁長官を務めた今日出海は弟。儒学者の伊東梅軒は母方の祖父。医師で第8代弘前市長や衆議院議員を務めた伊東重は母方の伯父。国家主義者の伊東六十次郎は従弟。外交官の珍田捨巳は遠縁にあたる。
【経歴】
横浜市伊勢町(野毛山・伊勢山皇大神宮下)にて代々津軽藩士の家系の父・武平、母・綾の間の3人兄弟の長男として生まれた。
1915年、上京して小石川茗荷谷の伯父の家に寄食し、「太平洋画会」「川端画塾」に通い、画家を目指しながら文学も志し東郷青児関根正二らと親交を結び、生田長江佐藤春夫を紹介される。東郷、佐藤春夫と第6回二科展に油彩を出品するも選に入らず絵筆を折る。
1917年11月、室生犀星の詩誌「感情」に詩篇「父の乗る船」掲載、1918年秋、駒込佐藤春夫宅で谷崎潤一郎に遇い、以後生涯、師と仰ぐこととなった。谷崎の非常勤無給秘書を務めながら、1920年、一高寮で知り合った川端康成、鈴木彦次郎らと交友を深め一高のモグリ学生となり「盗講」と称し、芥川龍之介の勧めに塩谷温博士の中国古典講義を聴講した。
1930年10月1日、金龍山浅草寺伝法院で大森亮順大僧正を戒師として出家得度、天台法師となり「東晃」と号した。また「戒光」とも号した(このころのペンネームか)。比叡山延暦寺戒蔵院に籠り、木下寂善僧正のもと三ヵ年の修行。
1933年8月、四度加行(しどけぎょう)、1934年3月、天台宗の僧侶養成機関、比叡山専修院(現在の叡山学院専修科)を卒え、検定試験に合格。准教師となって安楽寺に下り、この間『史外史伝 祇王』『僧兵』などを纏め刊行した。1936年「日本評論」に「稚児」を発表、評価の少ない中で川端康成は「東光さんは健在ですね」と日出海に語った。前後して強度の心臓肥大症を患い生死を彷徨い、秘教義や易学の研究に勤しんだ。
1953年2月「役僧」は30年ぶりに『文藝春秋』に掲載され、文芸家協会編「創作代表選集」にも収録された。『大法輪』に「天台大師」「師の御坊」、『祖国』に幕末の志士河上彦斎を描く「人斬り彦斎」を連載、「破戒無慚」「人の果て」を発表。1955年10月2日、比叡山に上山。天台宗随一の古儀、法華大会(ほっけだいえ)「広学豎義」(こうがくりゅうぎ)に臨み教学論議(僧侶の試験)を及第し阿闍梨となり、1956年1月、京都の宗教紙「中外日報」社長に就任した。
天台院を訪れた谷崎潤一郎により「闘鶏」の原稿が中央公論社に送られ、『中央公論』1957年2月号に掲載された。その前年1956年に裏千家の機関誌『淡交』に1年間連載していた『お吟さま』で第36回直木賞を受賞し、一躍流行作家として文壇に復帰する。
作家活動再開後は「山椒魚」「春泥尼抄」「悪名」「こつまなんきん」「河内風土記」など、八尾周辺の河内地方に取材した、一連の「河内もの」を立て続けに発表し、舞台化、映画化も相次いだ。辺鄙な農村八王子市恩方に篭り第2回毎日出版文化賞を受賞したきだみのるの「気違い部落周游紀行」と、上方河内在の異色の僧が描く「河内もの」は東西の雄と評され衆目を蒐めた。大宅壮一福田定一(司馬遼太郎)、村上元三寺内大吉をはじめ、天台院を訪れる識者は多士済々、柳原白蓮の姿もあった(本人談)。文学講座も開かれ「日本書紀」の講義では、大和・河内の地理にもとづく、在郷ならではの「オモロ講座」が展開した。(鈴木助次郎談)
僧侶としては、1964年春、エジプトからヨーロッパ各国巡錫の旅では、4月28日、バチカン市国ローマ法王庁にて、教皇パウロ六世に謁見、バチカン放送局の放送機材を松下幸之助が寄贈したこともあって日本人初の放送を行った(伝)。1965年11月、僧正となり、1966年5月中尊寺貫主に晋山、国宝金色堂の昭和大修理に努めた(1968年5月、落慶大法要執行)。谷崎潤一郎川端康成梶山季之の死去に際しては戒名を贈り、葬儀の導師を勤め、弔辞を読んだ。同じ天台宗僧侶である弁慶を描いた『武蔵坊辨慶』は、参議院議員活動による中断を挟んで1964-65年、及び76-77年に新聞連載されたが、死去により未完。また両親が津軽出身であることから自らを蝦夷の末裔「東夷ノ沙門(とういのしゃもん)」と称し、平泉・中尊寺を創建した奥州藤原氏を描いた歴史小説『蒼き蝦夷の血 藤原四代』を1970年から執筆するが、藤原清衡藤原基衡藤原秀衡の三代までを描いたところで死去したため、未完となっている。1973年11月の瀬戸内晴美中尊寺での出家得度に際しては、師僧となり「春聴」の一字を採って「寂聴」の法名を与えた。
天台宗による「一隅を照らす運動」が1969年に始まると、その初代会長を勤め(1973年まで)、そのための辻説法も行った。
晩年には、S字結腸癌を患い国立がんセンターで2度の手術を受けるも、比叡山・東塔の再建(さいこん)、中尊寺諸堂の整備、延暦寺における長講会(ちょうごうえ)、坂本・東南寺における「戸津説法」講師(こうじ)勤仕、岩手県浄法寺町の荒廃に瀕した古刹、八葉山天台寺特命住職晋山、復興に着手、あらたな時代に向けての、天台教学改革の提唱など、聰慧超脱、稀代の傑僧躍如たるものがあった。加えて、闘病、静養もままならぬなか、ヨーロッパ、ハワイと錫を巡らし、過密なスケジュールながらも、「作家は、ジャーナリズムに殺されてこそ本望」「ボクは生涯現役だよ」と果敢に執筆をかさね、テレビ出演、講演、口述を続けた。1977年6月には体調を著しく崩し再々度の入院、そして急性肺炎を併発し、千葉県四街道市の国立療養所下志津病院で9月19日午後1時55分、遷化(せんげ=高僧の死)した。法臘47歳 世寿79歳。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
今東光(こんとうこう) (1898-1977) 79歳で死亡。 (一部抜粋しています)
作家にして平泉中尊寺貫主今東光虎の門病院人間ドッグにはいり、結腸ガンが発見されたのは、昭和46年9月末であった。医者は手術の用意をしたが。この権(ごんの)大僧正は手術をいやがって、夜中に病院を逃げ出した。
しかし、2年後の昭和48年11月、国立がんセンターでやはり手術を受けなければならない状態に立ち至った。
摘出されたピンポン玉大のガンをはったと彼はにらみつけて、「この野郎、ツクダニにして食ってやる」と、罵(ののし)った。
当時手術にあたったがんセンターの小出靖夫博士は後でいう。
「腸は詰まり、尿もちゃんと出なくなっていて、かなり進んだS状結腸ガンでした。手術後はすっかり元気になられたが、2年後に血尿が出て外来に来られた。すぐ、再手術したかったのですが、ベッドがふさがっていた。2、3日入院を待っていただいている間に『膀胱をとる手術なんていやだ』と自分で見切りをつけておしまいになり、2度と病院に来ようとなさらなかった。あのとき2度目の手術を受けていたら、今でもあの毒舌が聞けたかもしれません」
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しかし、ガンは51年ごろから再発し、いったん、がんセンターを拒否したものの、結局52年7月、国立下志津病院に入院したときは、すでにS状結腸と膀胱とが癒着して穴があいていた。そして9月19日に死去した。
外科医長の藤井武夫は語る。「雑誌などで知っている先生とは大ちがいで、まじめで、深い思考をする、心のやさしい人でした。自分で今度が最後と認識されていました。いつ剃られるのか、頭の毛がのびていることはありませんでしたね」
最後の死床において医者を感服させるのは、平生においても必ずや相当な人物である。その裏返しもまた真ならん。

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