じじぃの「人の死にざま_1453_円仁」

ミュージカル 円仁 動画 YouTube
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円仁 ウィキペディアWikipedia
円仁(えんにん、延暦13年(794年) - 貞観6年1月14日(864年2月24日))は、第3代天台座主。慈覚大師(じかくだいし)ともいう。 入唐八家(最澄空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。下野国の生まれで出自は壬生氏。

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同時にわかる! 日本・中国・朝鮮の歴史 小口彦太/著 PHP文庫 2012年発行
世界的な旅行記を残した最後の遣唐使・円仁の大冒険 (一部抜粋しています)
最澄の弟子・円仁(慈覚大師)は、じつは海外では最澄よりも有名だ。
円仁は838年に遣唐使に参加した。当時の唐はちょうど混乱期で、結果的にこれが最後の遣唐使となる。円仁は日本に帰国するまでの9年間、各地を転々とし、驚くほどに詳細な日記をつけている。これが『入唐求法巡礼行記』だ。
1960年代にアメリカの駐日大使を務めたE・ライシャワーは、もともと東洋史の研究家で、円仁が残した記録を英語に訳し、さらに『円仁唐代中国への旅「入唐求法巡礼行記」の研究』を書いて、欧米で話題となった。
円仁の『入唐求法巡礼行記』は、今でも玄奘が記した『大唐西域記』、マルコ・ポーロの『東方見聞録』とならんで、東洋の三大旅行記とも呼ばれる。
円仁は最澄の開いた比叡山延暦寺で修業したが、当時は経典がまだ不十分だった。このため、44歳にして遣唐使に参加し、838年に唐の揚州の土を踏む。
だが、当時の唐は留学僧の資格にきびしく、円仁は短期滞在の還学僧の資格しか得られなかったため、翌年にはもう帰国しなければならなかった。
ところが、帰国船は逆風にあって山東省に漂着する。そこで円仁は、あえて不法滞在で仏教修業を続けるという道を選ぶ。まず現地の赤山法華院に身を寄せた。これは新羅の海運王・張保皐がつくった寺だ。当時、唐には新羅出身者のコミュニティがあり、多くの新羅僧が円仁に旅程などのアドバイスをして助けた。
その後、唐の公験(通行証)を手に入れた円仁は、新羅僧たちのすすめによって、青州をへて840年に五台山を訪ねた。ここは文殊菩薩の聖地と呼ばれ、現在でも多くの巡礼者が海外から参拝にやってくる。同年の夏、円仁はついに唐の都である長安に入り、本格的に密教の経典や儀式をみっちりと学んだ。
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その後、唐は875年の黄巣の乱からいよいよ傾きだす。日本では、894年に菅原道真の意見によって遣唐使が実質的に廃止された。
そのころには、朝廷の正式な施設を送るまでもなく、大陸との民間貿易はさかんになっていた。しかし、もはや唐から政治や文化を学ぶという状況ではなくなっていたのだ。