[HD] 謎の大王 継体天皇 動画 YouTube
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小林惠子 「二つの顔の大王」
継体天皇 ウィキペディア(Wikipedia)より
継体天皇(けいたいてんのう、正字体:繼體天皇、允恭天皇39年(450年?) - 継体天皇25年2月7日(531年3月))は、日本の第26代天皇。在位は継体天皇元年2月4日(507年3月) - 同25年2月7日(531年3月)。
戦後、現皇室は継体天皇を初代として樹立されたとする新王朝論が盛んになった。それ以前のヤマト王権との血縁関係については現在も議論が続いている。
諱はヲホド。『日本書紀』では男大迹王(おほどのおおきみ)、『古事記』では袁本杼命(おほどのみこと)と記される。
【出自を巡る議論】
『記紀』によると、先代の武烈天皇に後嗣がなかったため、越前(近江とも)から「応神天皇5世の孫」である継体が迎えられ、群臣の要請に従って即位したとされる。しかし、『日本書紀』の系図一巻が失われたために正確な系譜が書けず、『上宮記』逸文によって辛うじて状況を知ることが出来る。しかし、この特殊な即位事情を巡っては種々の議論や推測がある。
『記紀』の記述を尊重すれば、継体天皇を大王家の「5代前に遡る遠い傍系に連なる有力王族」とする説が正しい。しかし戦後に、歴史とりわけ天皇に関する自由な研究が認められることになり、継体は従来の大王家とは血縁のない「新王朝の始祖(初代大王)」とする説(水野祐「三王朝交替説」)などが提唱された。
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『二つの顔の大王ー倭国・謎の継体王朝と韓三国の英雄たち』 小林惠子/著 文藝春秋 1991年発行
新羅王・智証は継体天皇だった (一部抜粋しています)
丹波のある丹後半島は、かつて6世紀から8世紀にかけて、大規模に製鉄がおこなわれた、先進地域であり、栄えていた。近頃、日本最古の製鉄炉や鍛冶炉が幾つか発見されたのは耳新しいニュースである。丹波がかつては相当に発展した先進地域であればこそ、倭王に立てられようとする人物が住んでいたのだ。
丹波と脱解の出身地・多婆郡は似た発音の地名ではないか。しかし両者の共通性については後に説明するとして、倭彦王はどういうわけか、逃げ出してしまったので、金村は物部氏等と相談して三国(福井県坂町三国)にいる男大迹王(おほどのおおきみ)、すなわち継体を迎える。
継体元年は『書記』では507年であるが、継体5年(511)に山背の筒城(京都府綴喜郡)に都を遷(うつ)し、12年には弟国(京都府乙訓郡)に遷都して、大和の磐余の玉穂(奈良県桜井市池内あたりか)に入ったのは実に、20年後の526年であった。この時継体は77歳のはずである。
『書記』では応神天皇の5世の孫、彦主人王の子としかないので、どうみても、それまでの倭王の血統とは違うのは指摘するまでもないが、一体、継体は何者なのか。
継体が日本海側の越の国と縁が強いのが、父親の彦主人王が越前(福井県坂井郡三国町)にあり、母親の里が同じ越前の高向(福井県坂井郡丸岡町)にあって、そこで成長したと『書記』にあることから推量される。
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智証、すなわち継体は新羅にも倭国にも、神宮(社)を建立した最初の人だったのではないだろうか。
智証は67歳で新羅王となったとあるが、継体は智証と同じように、即位した時、すでに57歳という、当時でいえば高齢であった。
「火ヘンに召」?知を追い落した倭人とは智証つまり継体であり、彼は新羅と倭国を往来していたが、最終的に加羅の勢力に追われて倭国に再び、帰ってきたのではないか。
彼が新羅に渡った時点では、まだ倭国王ではなかったので、「新羅本記」では、倭国が攻めたとは記さず倭人としたのである。
スサノオが新羅と倭国を行ったり来たりする伝承は前にふれたが、それは、継体が新羅に行って智証となり、再び倭国に戻って倭王となったのを投影していると思われる。
そして智証の投影された脱解の生まれた国が多婆郡国であり、「倭国の千里東北から来た」といわれる所以が、ここにあったのである。
智証、すなわち継体は本拠地の越、あるいは、タバナに通じる丹波から新羅に渡り「火ヘンに召」?知を破って500年に新羅王・智証となったが、ほとんど同時に、倭国内の実力者である金村等によって倭国王に立てられた。
いわば新羅と倭国王とを兼務していたのだが、加羅国の勢力が強くなり、智証は倭国に亡命する。そして山背から大和に入った。それが、「新羅本記」に智証没年とされる514年であった。