じじぃの「神話伝説_45_脱解王(新羅王)」

紀元1世紀頃の朝鮮

30 スサノオと脱解王
多婆那国は、丹波国但馬国を連想させる地名です。ここにいう倭国を九州北部と考えた場合、東北へ千里といえば、鳥取県付近になります。多婆那国の地名も道のりも、スサノオにゆかりの深い山陰地方を示しています。
脱解が魚を取って母を養った話は、丹後の浦島太郎を連想させて興味深いところです。脱解は生まれてすぐに海に流されましたが、実はイザナギイザナミも、最初の子を水蛭子(ひるこ)だからと言って、葦船に入れて流したといいます。あるいはイザナギスサノオを嫌って、追い出したともいいます。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~iichirou/sub30.html
脱解尼師今 ウィキペディアWikipedia)より
脱解尼師今(だっかい にしきん)は、新羅の第4代の王(在位:57年 - 80年)であり、姓は昔(ソク)、名は脱解(タレ)。吐解尼師今(とかい にしきん、トヘ・イサグム)とも記される。第2代の南解次次雄の娘の阿孝(アヒョ)夫人の婿。新羅の王族3姓(朴・昔・金)のうちの昔氏始祖。
【即位まで(誕生説話)】
三国史記新羅本紀・脱解尼師今紀は、誕生及び即位については以下のように記している。
倭国の東北一千里のところにある多婆那国で、その王が女人国(不明)の王女を妻に迎えて王妃とし、妊娠してから7年の後に大きな卵を生んだ。王は王妃に向かって、人でありながら卵を生むというのは不吉であり、卵を捨て去るように言った。しかし王妃は卵を捨てることに忍びず、卵を絹に包んで宝物と一緒に箱に入れて海に流した。やがて箱は金官国に流れ着いたが、その国の人々は怪しんで箱を引き上げようとはしなかった。箱はさらに流れて、辰韓の阿珍浦(慶尚北道慶州市)の浜辺に打ち上げられた。そこで老婆の手で箱が開けられ、中から一人の男の子が出てきた。このとき、新羅の赫居世居西干の39年(紀元前19年)であったという。老婆がその男の子を育てると、成長するにしたがって風格が優れ、知識が人並みならぬものになった。
儒理尼師今が57年10月に死去したときには、王(儒理尼師今)の遺命に従って脱解が王位についた。
昔脱解が船で渡来した人物であることを示す挿話などと併せて、出生地を日本列島内に所在すると見る向きが多く、丹波国但馬国肥後国玉名郡などに比定する説がある。

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蘇我氏の正体 日本書紀が隠そうとした真実』 関裕二/著 東京書籍 2004年発行
スサノオと脱解王のつながり (一部抜粋しています)
三国史記』の成立が12世紀と、次代がかなり下がるため、資料の信憑性が気になる。また、『三国史記』は新羅の王家に婿養子を次々に入れることで3つの流れを「想定」している点、あまりにも恣意的で信用できないとする説もある。
だが、朝鮮半島新羅の国が成立する直前の混沌とした時代に、海の外から王がやってきたという話は、民族の屈辱であるかもしれず、12世紀の歴史書が、その伝承を採用したところに、大きな意味が残されているように思う。
また、朝鮮半島南部は中国大陸や北方から、絶えず逃亡の民が流れ込む場所であり、国家形成が遅れた地域でもあった。それに、「鉄」の生産地であったから、ここに周辺から多くの人びとが押し寄せていた。この中に、倭人の姿もあったという記録があるから、混沌とした状況の中で、倭人の勢力がそれなりの地位にあって影響力を及ぼしていた可能性は否定できないだろう。
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いずれにせよ、朝鮮半島北部が、中国の混乱や流民、そして中国の直接支配、さらには北方騎馬民族の絶え間ない南下に苦しめられていたことだけはたしかである。
そして、このような荒波から少し外れたところで息をこらして存在していたのが馬韓(のちの百済)・辰韓(のちの新羅)・弁韓(のちの伽耶)であった。
これら朝鮮半島南部の地域が国家としてまとまっていくのはヤマト朝廷建国よりもやや遅く、4世紀にいたってのことだった。しかも『三国史記』によれば、この前後、倭人はしきりに半島南部に押し寄せていたと記録している。
とするならば、1世紀の段階で倭人辰韓に乗り込んでいき、「王」となって君臨していたわけではないにしても、大きな力を持っていた可能性は捨てきれないのである。
そこで、脱解王の故郷である倭国の東北千里の多婆那国は、どこにあったのかが問題になってくる。
残念なことに、正確には分かっていない。ただ、倭国を当時の最先端地域、北部九州と仮定すれば、その東北千里(400km強?)のあたりに、「多婆那」らしき国があったのではないか、という指摘がある。つまり、「多婆那」は「丹波」に通じるのである。
とするならば、脱解王は倭人であり、そかも、脱解王の伝説が日本でも語り継がれ、これをモデルに「スサノオ」の神話が生まれたのではあるまいか。
スサノオ=脱解王」の蓋然性を高める要因は、いくつかある。
まず第1に、脱解王が「鍛冶(かじ)」を得意としていたと記録されていることだ。
この時代、倭人朝鮮半島辰韓弁韓の鉄を目指したことは、中国側の資料にも記されている。
このあたりの事情を、『三国志魏志東夷伝には、次のようにある。
 国に鉄を出す。韓、穢(わい)、倭、皆従いて之を取る。諸市買うに皆鉄を用う。又、以て二郡に供給す
また、『後漢書東夷伝にも、同じような記事が載っている。
 国に鉄を出す。穢、倭、馬韓、並び従て之を市す。凡そ諸貿易、皆鉄を以て貨と為す
これらの記事から、朝鮮半島南部の鉄の産地に、周辺の国々が注目し、押しかけたことがわかる。そして彼らは鉄を取り、また利器として使い、さらには、交易品としたり貨幣としても利用していたのである。
したがって弥生時代丹波のあたりから、さかんに朝鮮半島南部に向けて鉄を採りに出かけていった人はいるだろうし、その中のひとりが脱解王であったとしても、なんの不思議もない。