じじぃの「神話伝説_158_聖武天皇(奈良大仏)」

世界遺産東大寺 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=7B62vFSGHkg
奈良の大仏に関する不思議 大仏百科
奈良の大仏は何がきっかけで造られたのでしょうか。
現在の柏原市にあった智識寺に、日本最大の大仏がありました。それを見た聖武天皇がいたく感動し、金銅の大仏を造ることを発案します。これが一般に言われている奈良の大仏が造られることとなったきっかけです。それではもう一つの怨霊鎮魂説とはどういうものなのでしょうか。
http://www.nkdaibutsu.com/nara/wonder.html
東大寺盧舎那仏像 ウィキペディアWikipedia) より
東大寺盧舎那仏像(とうだいじるしゃなぶつぞう)は、奈良県奈良市東大寺大仏殿(金堂)の本尊である仏像(大仏)。一般に奈良の大仏として知られる。
聖武天皇の発願で天平17年(745年)に制作が開始され、天平勝宝4年(752年)に開眼供養会(かいげんくようえ、魂入れの儀式)が行われた。その後、中世、近世に焼損したため大部分が補作されており、当初に制作された部分で現在まで残るのはごく一部である。 「銅造盧舎那仏坐像」の名で彫刻部門の国宝に指定されている。
正式には大仏は「盧舎那仏坐像」、大仏殿は「金堂」というが、本項では以下「大仏」、「大仏殿」とする。
聖武天皇 ウィキペディアWikipedia) より
聖武天皇(しょうむ てんのう、大宝元年(701年) - 天平勝宝8年5月2日(756年6月4日)、在位:神亀元年2月4日(724年3月3日) - 天平勝宝元年7月2日(749年8月19日))は日本(奈良時代)の第45代天皇。即位前の名は首皇子(おびとのみこ)。 尊号(諡号)を天璽国押開豊桜彦天皇勝宝感神聖武皇帝、沙弥勝満とも言う。文武天皇の第一皇子。母は藤原不比等の娘・宮子。

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『「誤解」の日本史』 井沢元彦/著 PHP文庫 2012年発行
大仏建立は国家鎮護のためか? (一部抜粋しています)
奈良の大仏については、もちろんどなたでもご存知だと思います。
しかし、その奈良の大仏が「なぜ建てられ、そしてなぜ捨てられたか」と訊かれて、ご存知の方ははたしているでしょうか。
「捨てられた」などというと驚かれる方もいると思いますが、あとで述べるように、大仏は奈良の都とともに、いわば捨てられてしまったのは間違いないのです。
まず、「なぜ建てられたのか」という問題から入りましょう。
おそらく歴史学者はこう答えるでしょう。
「そもそも大仏建立を命じた聖武天皇は、『大仏造立の詔(みことのり)』という公式宣言を発しているんじゃないか。そしてそこに大仏造立の目的は”国家鎮護(ちんご)”であると明確に書かれている」と。
つまり、国土安穏のために大仏を造るのだということを、当の聖武天皇が言っている。だからそれが大仏建立の目的なのだと。
このあたりにも、歴史学者が信奉する――妄信と言ってもいいでしょう――史料絶対主義の弊害が見え隠れしています。「史料にそう書いてあるじゃないか」と。しかし、聖武天皇が言っているのだから間違いないというのは、あまりに単純な結論ではないでしょうか。
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聖武天皇の奥さんは、光明皇后と言います。この皇后は、日本で初めて皇族以外の出身で皇后になった人なのです。天皇の后にもランクがあって、皇后はいわば正室です。後世に女御、更衣などと呼ばれた皇后より下位の妃であれば、それまででも皇族以外の出身者もいましたが、皇后は光明皇后が初めてだったのです。皇后というのは、天皇が亡くなったあと臨時に天皇の位につく可能性がある特別な地位でした。推古女帝や持統女帝が、まさにその例です。したがって、「女御」や「更衣」はともかく、皇后はやはり皇族出身でなければいけないというのが不文律だったわけです。
ところが、その不文律を光明皇后が破りました。正確に言えば、光明皇后の生家である藤原氏が不文律を破って光明を皇后に押し上げたのです。もちろん激しい抵抗があったということは想像に難くなく、皇族の代表である長屋王が反発したとされています。
20年ほど前、この長屋王の邸宅跡が発掘されましたが、発掘された木簡に「長屋親王」と書かれていたことから、長屋王は長屋親王と呼ばれていたことが明らかになりました。
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聖武天皇夫妻はあのとき、長屋王の大怨霊からどうやったら逃れられるのかを考え、そのために仏(大仏)に守ってもらおうと考えたのだと思います。仏に守ってもらえば、きっと男の子が生まれて我が家系は繁栄するだろうと思ったはずです。
しかし、あにはからんや実際には称徳女帝しか生まれなくて、その称徳女帝の代で天武系の血統は絶えてしまいました。そこで、それまでずっと冷や飯を食わされていた天智系に皇統が戻るわけですが、適任者はすぐに高齢の光仁しかいませんでした。そして、光仁の息子である桓武があとを継ぐのですが、彼が何をやったかというと、平安京への遷都なのです。
話を整理しますと、この段階で明らかにまず血統が変ります。そして、もう1つ重大なことは、ありていに言えば、当時の天皇家の認識では奈良の大仏は「役に立たなかった」のだと思います。奈良の大仏は皇統を繁栄させるためになんの効力もなかったと言わざるを得ませんでした(多量の銅をつくったため川が汚染され、住めなくなったという説もありますが、当時の人はこの汚染自体も祟りととらえたはずです)。
繰り返しになりますが、大仏造立は国家的な巨大プロジェクトです。日本の要になるような大建造物を本当に国家=天皇家の守護神と考えているならば、その守護神の周りになぜ都(平城京)を続けさせなかったのでしょうか。なぜ都を平安京に遷してしまったのでしょうか。
それは大仏も平城京も怨霊退散には適さなかったため、「捨てられてしまった」からです。いわばあの守護神=大仏は、「役に立たないのではないか?」と、当時の人々、なかでも為政者が思ったからだと思うのです。