じじぃの「人の死にざま_1433_HS・トルーマン」

【閲覧注意】アメリカの原爆投下はただの人体実験であった KKK出身のトルーマン KSM 動画 Youtube
http://www.youtube.com/watch?v=swipgGoVNQI
ポツダム市で連合国の首脳たち

白人至上主義者団体(KKK)の行進

ハリー・S・トルーマン ウィキペディアWikipedia)より
ハリー・S・トルーマン( Harry S. Truman, 1884年5月8日 - 1972年12月26日)は、アメリカ合衆国の政治家。上院議員、第34代副大統領、第33代大統領を歴任。フランクリン・ルーズベルト大統領の死を受けて1945年に副大統領から大統領に昇格。全米有色人種地位向上協会で演説を行い、公民権運動を支援した初めての大統領である。日本への原子爆弾投下については、彼が投下書類(投下命令書)を承認したとされる。白人至上主義者団体クー・クラックス・クランの元構成員であった。
第二次世界大戦の終了から冷戦の始まり、国際連合、CIA、NSA国防総省の創設および朝鮮戦争などに関与した。座右の銘は「the buck stops here」(直訳は「バック(ポーカーで用いられる親の印)はここで止まる」、意訳すると「責任は私が取る」)で、執務室の机にこの言葉を記した置物を置いていた。 ジョージ・W・ブッシュと並び、アメリカ大統領史上最低の支持率22%のホルダーである。
第二次世界大戦
トルーマンが原爆投下を決定した背景として、その開発に当たって使用したアメリカ史上でも最高の、国家予算の20%(日本の国家予算の3倍)にも及ぶ、当時で19億ドルもの予算を議会に事後承諾させ、更に今後も核開発に予算を計上させるための成果が必要だった事、実戦での評価(実験)、戦後の覇権争いでソ連に対して優位に立つという目的があったとするほか、人種的偏見があったとする説もある。

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『ぶらり日本史散策』 半藤一利/著 文春文庫 2010年発行
速やかに特殊爆弾を投下せよ! (一部抜粋しています)
原爆投下の決定という神をも恐れぬことを、戦時下とはいえ、よくぞ人間がなしえたものよ。
たとえば、投下の最終命令をだしたトルーマン大統領は、その決定の責任を回避しようとはせず、回顧録で、きわめて冷徹なことをいっている。
いつどこで原子爆弾を使用するかの最終決定は、私が下すべきことであった。この点に間違いがあってはならない。私は原子爆弾を軍事兵器とみなしこれを使用すべきであることに一度も、なんらの疑問を抱かなかった。大統領付きの最高軍事顧問たちはその使用を勧告し、また私がチャーチルと話し合った時、かれらはためらうことなく私に向かって、戦争終結のために役立つかもしれないならば、原子爆弾の使用に賛成すると語った」
ここに出てくるチャーチル英首相と「話し合った時」のことであるが、それは昭和20年(1945)7月のポツダムにおける会談のことと思われる。しかし、チャーチルは『第二次大戦回顧録』で、ポツダムで、「原子爆弾を使用すべきかどうか、その時に話し合ったことはない」と追想し、さらに記している。
「日本に降伏を強いるため原子爆弾を使用するか否かの決定は、一度も問題にならなかった。この歴史的事実は厳として存在しており、後世この事実は正しく判断されなければならない」
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そしてまた、チャーチルは、これはトルーマンではなくルーズベルト大統領と、昭和19年9月19日の会談で、つぎのような合意をすでにしていた。これをハイドパーク協定という。
「……原爆が完成した暁には、慎重な考慮を払ったのちに、日本にたいし、使用されることがありうべく、降伏するまでこの爆弾をくり返すと警告すべきである」
まったくいい気なものである。つまり、当時の勝ちに驕っている面々は、爆弾を手にすることができたら、それによって武器を持たぬ日本国の無辜(むこ)の民の抹殺に、ほとんどだれも痛痒すら感じていなかったのである。
もう少しくどくいおうか。これまで爆弾投下問題にかんしてよくいわれていることに、原爆が完成する前に対ドイツ戦が終わる、とはっきりしたのちになって、それならばということで、代わりに日本が標的になったという説がある。事実はそんな悠長な方針なんかははじめからなかった。原爆製造計画(マンハッタン計画)の総指揮官グローブス少将の、スチムソンあての手紙の一説がいとも興味深い。
「目標は一貫して日本なのである」
これはドイツ降伏以前の、昭和20年4月23日付けのもので、ドイツが目標となった事実などいっぺんもなかったことがわかる。すなわち、その底のほうに、明らかに、人種差別のあったという事実も。そしてスチムソンは戦後の回顧録にこう書いている。
「1941年から45年まで、大統領その他政府の責任ある高官が、原子力を戦争に使うべきではないと示唆するのを聞いたことは一度もない」
クソ食らえ、である。戦争という熱狂は、人間をかくも愚劣にして、無責任へとかりたてるものなのか。いや、途轍もなく強力な新兵器を、膨大な資金(20億ドル)と労力(合計すると50万人)をかけて造りあげたとき、それを使わないほうがおかしい、と考えるのが人間というものなのか。
そして原爆完成は確実になった、となって昭和20年4月27日、ワシントンで原爆投下の目標検討委員会の初会合がひらかれ、日本全国の17都市がまず列挙された。5月12日の第2回では、京都、広島、横浜、小倉、新潟の5都市に、同28日の第3回では、京都、広島、新潟に絞りこまれた。その後に「歴史的都市」という理由で京都が外れ、小倉と長崎が加わったのは7月の下旬のことである。