じじぃの「科学・芸術_634_太平洋戦争・飢餓作戦」

The Biggest Naval Battle Ever | Battle of Leyte Gulf 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=FncAd2qfiAE
Pacific Battles

Battle of Leyte Gulf

アメリカ人の歴史Ⅲ』 ポール・ジョンソン/著、別宮貞徳/訳 共同通信社 2002年発行
核兵器の使用許可 より
トルーマンホワイトハウスに入るとすぐ重要な決断を下していたが、最初の歴史的な決断といえるのは、日本に対しての原子爆弾の使用を許可したことである。この措置をとったすばやさと迷いのなさは、ある意味では、彼が最高行政官の地位にふさわしいことを証している。しかし、それは別の意味では、総力戦のさなかにあったは正しい考えを持った人でさえいかに退廃し、相対的な道徳観に支配されてしまうか、その結果、トルーマンのように絶対的な価値観を信奉する人でさえいかに判断が歪められてしまうかを示している。
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こうした戦略爆撃をイギリスを発信基地としてナチスドイツに加えることができたアメリカ軍爆撃機は、航続距離内に入るなりさっそく同じ爆撃を日本本土にも浴びせはじめた。そのためにアメリカは中部太平洋作戦を発動し、1943年11月にタラワ環礁を押えようとした。この作戦は、空軍力、水陸両用車両による上陸、圧倒的な火力を利用し、東京へとつらなりつづく島々を飛び石伝いに、いや馬跳びして進んでいこうというものである。タラワ環礁では日本軍が必死の抵抗を示したため、アメリカ軍は守備隊総勢5000人のうち4983人を殺害するはめになり、みずからも1000人を失った。これを見たアメリカ軍は、火力を増強し馬跳びの幅を広くした。次の島クウェジュリン環礁への空爆と艦砲射撃は地殻に激変をもたらし、「島全体が6000メートルの高さにつまみあげられ落とされたかのようだ」と、目撃者が話したほどである。8500人の守備隊はほぼ全滅したが、こうして巨大な火力が投じられたおかげでアメリカ兵の死者は373人に抑えられた。以後、戦死者数の比率は維持されていく。
レイテ島奪取にさいしては日本軍が7万人のうち6万5000人を失ったのに、アメリカ軍の死者はわずか3500人にすぎず、硫黄島では最悪の戦死者比をこうむったとはいえ、1万8000人余の日本軍戦死者に対して、アメリカ軍の死者は4917人にとどまった。沖縄奪取にさいしては最大の人的損失を記録したが、日本側の死者18万5000人にたいしてアメリカ軍の死者および行方不明者は1万2520人に抑えられた。ほとんどの日本人は空爆、艦砲射撃で殺されるか、補給を絶たれて餓死している。アメリカ軍の歩兵が視界に入ってくることも、銃剣が届く間合いにまで迫ってくることも一度としてなかった。こうして、アメリカ人は、多くの場合、遠方から投入される圧倒的な火力こそ、自軍の死傷者数をできるだけ低く抑えながら、なおかつ日本軍を敗北させるかぎだ、と考えるようになった。
陸上基地を発進した重爆撃機、絶えず規模を拡大しながら長時間連続爆撃を加えるという、日本に対する絨毯爆撃。この空襲へと駆り立てたのも、アメリカ軍死傷者を最小にとどめながらできるだけ速やかに戦争を終結させたい、という同じ無理からぬ動機である。日本の支配者は(実際に事態を掌握していたとしての話だが)遅くとも1942年の夏にはこの戦争は負け戦だとわかっていたのだから、どう見ても、交渉を怠った罪を問われてしかるべきで、欧米人の考え方からすると、なぜ交渉しなかったのかまったく説明つかない。したがって、日本との戦争を指揮していたアメリカの政治家や軍事指導者にすれば、その結果起きたことに道徳的責任を負うのは日本ということになる。計画が始まったのは1944年11月、攻略したグアム島の基地がフル稼働に入り、超空の要塞B29がそれぞれ8トンの爆弾を搭載し、護衛戦闘機を従え、総勢1000機の編隊を組んで攻撃できるようになってからである。振り返ってみれば、つい先頃の1939年9月、FDR(フランクリン・ルーズベルト)はすべての交戦国に声明を発し、民間人を爆撃する「非人間的な残虐行為」を慎むよう要請したものである。しかし、それは真珠湾以前のことで、そうした道義は遠い昔の話だった。
1945年3月から7月にかけて、B29はほとんど抵抗を受けないまま、日本の66都市に10万トン焼夷弾を投下し、440平方キロにおよぶ人口密集地帯を焦土と化した。たとえば、1945年3月9日夜半から10日未明にかけて、300機のB29が東京を襲い、強い北風にも助けられて、昔は武蔵の国の湿原だった一帯を地獄に変え、市街地39平方キロを焼野原にした。死者は8万3000人、負傷者は10万2000人を数えた。近くの捕虜収容所でこの光景を目撃した人物は恐ろしさのあまり、1923年にその目で見た大地震とまるで同じだったと語っている。日本側によれば、原爆投下の前に、空襲を受けた地域は69にのぼり、225万棟の家屋が消失して900万人が家を焼け出され、死者は26万人、負傷者は46万人に達していたという。