じじぃの「科学・芸術_670_アメリカの20世紀・無差別爆撃」

Dresden Bombing With Footage of Allied Aerial Assault on Pforzheim and Cologne Germany 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=06_9WEZcvUg
Bombings of Dresden

Bombings of Tokyo

『空の帝国 アメリカの20世紀 (興亡の世界史)』 生井英考/著 講談社 2006年発行
銀翼つらねて より
第二次世界大戦は実にさまざまな面で「大量」という言葉の冠せられた戦争だった。大量生産と大量動員、消耗戦という名のもとでの大量消費と大量破壊、そして一般市民を巻き込む大量殺戮……。注意すべきはこの「大量」が英語でmassive、すなわち本来なら個々別々の存在である人間達を十把ひとからげの固まりとしてあつかう概念となっていることだろう。たとえば第二次大戦では枢軸国の総動員数2543万人に対して連合国では7954万人、戦闘員の死亡は枢軸国が566万人に対して連合国が1127万人、一般市民の犠牲では枢軸国が195万人に対して連合国が3237万人にのぼったといわれる。概算すると全体に占める戦闘員の死者の割合が33パーセントなのに対して、一般市民が67パーセントもの高率となった。
第一次大戦では一般市民の率が5パーセントと推計されるから、第二次大戦はそれとは比べものにならない規模で市民を巻き込む大量殺戮がおこなわれたことがわかる。第二次大戦はまさしく十把ひとからげに国民すべてを戦争に巻き込み、駆り立てた総力戦だったのである。
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大戦の初期には敵の油断や弱点を衝くスマートな用兵法が重視されていたのが、長期化にともなって集中砲火や絨毯爆撃による徹底的な破壊と、火炎放射器などを兵器に使った強引な正面攻撃を主流とするような趨勢へと移り変わってゆく。
皮肉なのは、いまではアメリカ軍に顕著なものと思われているこうした力ずくのやり方が、歴史的に見るとむしろヨーロッパで始まり、アメリカでは長いこと敬遠されてきたものだったということだろう。たとえばアメリカ軍が火炎放射器を初めて兵器として採用したのは1942年、日本軍との一大決戦となったガダルカナルの戦闘でのことだが、その始まりは第一次大戦塹壕戦に手を焼いたドイツ軍と、第二次大戦で再び火炎放射器を使ったドイツ軍への報復として使用に踏み切ったイギリス軍にあった。アメリカはその応酬を醜悪で非人道的なものとして嫌悪したが、ジャングルの奥深くに塹壕を築いて戦う日本軍に手を焼いたことから米海兵隊は結局これを採用し、ガダルカナルからタラワ、サイパン硫黄島、沖縄……とつづいた熾烈な日米間の戦闘を通して最も巧みで容赦のない火炎放射器の使い手となったのである。
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そしておそらくはこれが、第二次大戦におけるアメリカ戦略空軍の悪名高いドイツ爆撃と日本空襲の極大化の背景についても、ある程度まで当てはまる説明となるだろう。というのも先に触れたようにアメリカは火炎放射器を兵器として使用することに当初きわめて強い嫌悪感を見せたが、それと同じく戦略爆撃についても、イギリスが早くから平然とおこなっていた夜間の絨毯爆撃にアメリカは長らく違和感を示したからである。
実際、よく知られているように1842年の初めにイギリスに着任した米陸軍航空軍(USAAF)は英米合同のかたちでドイツに対する戦略爆撃をおこなう予定でいたが、対空砲火で撃墜される可能性を減らしながら爆撃効率を上げるには軍事拠点のみに限定する考え方を捨てて一定の地域をくまなく叩く絨毯爆撃を夜間に決行するほかないとするイギリスの主張を非人道的なものとして反撥し、あえてRAF(英国空軍)と別行動のかたちをとって昼間の精密爆撃に出動した。けれども1943年夏に英空軍が夜間爆撃でハンブルグ全市を壊滅させたことを転機に米航空軍も精密爆撃へのこだわりを捨ててドレスデン爆撃では夜間爆撃へと移行、これによって1個の都市をまるごと焼尽する戦略爆撃の最終形態が完成したのである。
1945年5月5日、ドイツは無条件降伏した。それ以前、すでにドイツの敗北は明白なものとなっており、にもかかわらず独裁者の決断の遅れが戦争の終結を引き延ばしたといってもよいものだった。同じころ、沖縄では日本の沖縄守備軍が米軍を相手に無謀な反攻戦を展開して大失敗を喫し、民間人を巻き込んだ絶望的な結末へと突入しようとしていた。こうしてヨーロッパでの戦いを終えた米陸軍航空軍はすべての戦力を太平洋方面に転じ、いっそうの苛烈さをきわめた日本本土の都市空爆と原爆投下へと進んでゆくことになるのである。