じじぃの「科学・芸術_730_移民国家アメリカ・日本人移民」

Japanese Relocation, 1943 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=yVvTk9ThEG4
Japanese American Internment

『移民国家アメリカの歴史』 貴堂嘉之/著 岩波新書 2018年発行
日本人移民と2つの世界大戦 より
19世紀末、日本人移民が「官約移民」としてハワイへ押し寄せた頃、アメリカ本土にもサンフランシスコを玄関口に日本人の渡航が本格化した。1891年から1900年までに、出稼ぎ目的の男性労働者を中心に2万7440名が、1900-07年に5万2457名が入国、ハワイからも、1907年大統領令でハワイからアメリカ本土への転航が禁じられるまでの期間、3万8000人が移住した。
彼らは、排華移民法の成立により、中国人労働者の流入が停止されたことを受け、西海岸でそれまで中国人移民が担っていた鉄道建設や鉱山、農業や果樹園、漁業や缶詰工場の仕事、都市部では家事使用人などの仕事についた。
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日本人移民のアメリ渡航が本格化すると、まもなく西海岸では組織的な排斥運動が開始された。その理由は大きく3つに整理できる。1つは、アジア系最初の移民集団として海を渡った中国系移民を対象とした白人労働組合や政治家による東洋人(Orientals)への排斥運動の伝統が、すでに西海岸には形成されていたこと。2つ目には、日本の国際政治の動き――日露戦争満州侵攻など――に日系人の立場は翻弄され、ローカルな排日運動が増幅したこと。3つ目に、アメリカ社会が同時代に経験した1890年のフロンティアの消滅とそれ以後の海外進出、「新移民」の大量流入と移民の量的・質的規制の開始、革新主義の政治などが関わっている。
1892年には、排華――「中国人は出ていけ!」――で名を売ったデニス・カーニーがサンフランシスコ、サンノゼなど日本人街で「日本人は出ていけ!」の説法を始め、1900年にはサンフランシスコのフィーラン市長が市民大会で日本人移民制限の決議を行った。日本人労働者が憎まれたのは、低賃金で働き稼いだお金を本国に送金し、また労働争議の「スト破り」に頻繁に使われることなど、排華の理由と同じだった。
日露戦争が始まると、アメリカでの対日感情はいったん好転した。アメリカは伝統的にモンロー主義を掲げ孤立主義を堅持してきたが、米西戦争でフィリピン、グアムを獲得、1893年にはハワイ王国を倒して1898年に併合、世紀末には中国に対し門戸開放宣言を発するなど、東アジア進出の足場を築き始めていた。すでにふれたように、アメリカは「4億人の市場」である中国への関心を高め、中国をヨーロッパ列強の脅威から守る庇護者の役割を自らに任ずるようになっており、ロシアの中国大陸支配を排除する目論みもからも、いつもは排日記事を載せていた新聞各紙が戦中は日本の戦闘での勝利を大きく報じている。
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1941年12月7日、日本軍による真珠湾攻撃により日米戦争が始まったとの知らせに、多くの日系人は耳を疑った。午前8時に開始されたオアフ島への急襲で、2時間足らずのうちに、8隻の戦艦を含む21隻が沈没・損傷、2403名が死亡、1178名が負傷した。この真珠湾攻撃へのアメリカ政府の対応は迅速であり、これによりハワイやアメリカ本土のみならず、カナダやラテンアメリカ諸国の日本人の生活までもが一変することとなる。
ハワイではただちに戒厳令が出され、敵性外国人とされた日系人社会の移民指導者たち367名がFBIにより拘束された。アメリカ本土でも、1世有力者を中心に924名が48時間以内に逮捕され、司法省管轄下の収容所で戦時中を過ごすことになった。また財務省は在米日本人の銀行口座を凍結した。
戦時ヒステリーの世論に後押しされて、1942年2月19日には、フランクリン・ローズヴェルト大統領が大統領9066号に署名し、太平洋軍事地域から住民を強制立ち退きされる権限を陸軍省に与えた。その対象には、市民権を持たないドイツ人やイタリア人も含まれていたが、実施にあたって対象になったのは、日本人であった。しかも、陸軍省アメリカ市民と敵性外国人の区別をつかなかったため、市民権を持つ日系2世(当時の日系人全体の約7割)までもが含まれた。
政府内部からの批判はあったが、世論の全面的な支持のもと、ワシントン、オレゴン、カリフォルニアの3州に移住する日系人約11万人の共生立ち退きが実施に移された。彼らは臨時の「集合所」で数ヵ月過ごした後、「戦時転居局(War Relocation Authority、略称WRA)」が運営する、内陸部の僻地に急造された10ヵ所の強制収容所に送られた。
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大戦終了後の1946年7月15日、ホワイトハウスにて442部隊(第二次大戦中のアメリカ合衆国陸軍において日系アメリカ人のみで編成された部隊)の帰還祝賀会が開かれ、トルーマン大統領は「諸君は世界の自由諸国のために戦った。敵軍に向かって戦ったばかりでなく、偏見に対しても戦い、そして見事、打ち勝ったのです」と讃えて労をねぎらった。
戦後社会における日系人の社会的上昇において、この2世兵士の功績が果たした役割は決して小さくないものの、勲章に飾られた軍服を着た日系人とその家族にとって、第二次大戦とは何であったのか。戦場の英雄ダニエル・イノウエは、ハワイへの帰路、立ち寄ったサンフランシスコで理髪店に入り、亭主に「ジャップの髪は切らないよ」と言われ、本土の戦友の行く末を案じた。