ロバート・オッペンハイマー「今や我は死なり、世界を破壊する者なり」 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Wb0aSCVkdlY
Einstein, Oppenheimer
The Trials of J. Robert Oppenheimer American Experience
http://www.pbs.org/wgbh/americanexperience/films/oppenheimer/
『オッペンハイマー 下 「原爆の父」と呼ばれた男の栄光と悲劇』 カイ・バード&マーティン・シャーウィン/著、河邉俊彦/訳 PHP研究所 2007年発行
手が血で汚れているように感じます (一部抜粋しています)
議会における審議の最中に、オッペンハイマーはロスアラモスの職を正式に辞した。1945年10月16日、この日のハイライトとなる授賞式には、実質的にメサの全人口に相当する数千人が、この41歳のリーダーに別れを言うために集まった。オッピ―が告別の辞を述べるために立ち上がる寸前に、ドロシー・マッキビンは彼に短く挨拶した。彼には、用意した言葉はなかった。マッキビンによれば、「彼が深くものを考えているときに見せた、あのかすみの掛かった目がそこにあった。後になってわたしは、この短い瞬間にロバートが挨拶の言葉を準備していたのだと理解した」。数分後、燃えるようなニューメキシコの太陽の下で、壇上の椅子に座っていたオッペンハイマーは、グローブス将軍から渦巻き型の装飾を施した感謝状を受け散るために立ち上がった。彼は低い静かな声で、何年か先に、この研究所の仕事にかかわったすべての人が、達成した仕事を誇りを持って振り返ることができる日がくるよう望んでいると語った。しかし、冷静な調子で彼は警告した。「今日のところ、その誇りは深い懸念によって加減しなければなりません。原子爆弾が交戦中の国々の、あるいは戦争に備えている国の新しい兵器として加えられることになれば、ロスアラモスと広島の名前を人類が呪う日が必ずやってきます」
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6日後の1945年10月25日、午前10時30分、オッペンハイマーは米大統領の執務室に案内された。この有名な物理学者の雄弁さと、カリスマ的人物像を噂で聞いていたトルーマン大統領は、ごく自然に会うのを心待ちにしていた。ただ一人の同席者パターソン長官がオッペンハイマーを紹介した後、3人は着席した。一説によるとトルーマンは会話の口火を切って、原子力の管理権を永久に軍に委ねるとしたメイ・ジョンソン法案が議会で可決されるよう、オッペンハイマーの応援を求めたとされている。「最初に、国内問題をはっきりさせることだ。それから国際問題だ」。トルーマンが言った。オッペンハイマーは落ち着かない長い沈黙の後で、ためらいながら言った。「おそらく、最初に国際問題をはっきりさせることが、最上の策でしょう」。もちろん彼の言わんとしたことは、原子力技術に国際的管理の網を掛けることによって、これらの武器の拡散を防止するのが至上命令だということだった。会話の途中でトルーマンは突然、ロシアはいつ自前の原子爆弾を開発すると思うか、とオッペンハイマーに尋ねた。分かりません、とオッピ―が答えたとき、トルーマンは自信を持って、わたしは知っていると言った。「彼らは絶対開発できない」
オッペンハイマーにとって、この愚かさはトルーマンの限界を証明していた。その「無理解さに、オッピ―は心臓が飛び出す思いがした」と、ウイリー・ヒギンボサムが回想する。自分の不安定な立場を、計算づくの決断力を見せびらかすことで埋め合わせてきたトルーマンという男について、オッペンハイマーは腹立たしいほど一時的で、曖昧で、陰気なものを感じた。この大統領は彼のメッセージの絶対的な緊急性を理解していないと感じたオッペンハイマーは、神経質に自分の手を握り締めると、プレッシャーがあるときによくやるように、とうとう悲観的な意見を口にした。「閣下」と、彼は静かに言った。「わたしは手が血で汚れているように感じます」
このコメントはトルーマンを怒らせた。トルーマンは後にデビッド・リリエンソールにこう告げている。「わたしは彼に、血で汚れているのはわたしの手だ。君は心配しなくてもよろしい、と話した」。しかし、長年にわたってトルーマンは物語を脚色してきた。一説によると、「気にするな、洗えば落ちる」と応えたという。さらにもう一つのバージョンでは、トルーマンがハンカチを胸ポケットから引き出して、オッペンハイマーに言ったとのことだ。「さあ、これで拭くかい?」
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1945年5月になっても、この出会いはトルーマンの心にはっきりと刻まれており、アチソン宛の手紙の中にオッペンハイマーのことを、「5、6ヵ月前にわたしのオフィスに来て、話の間ずっと手をもみながら、原子力を発見したために手が血だらけ、とぬかした泣き虫科学者」と書いている。
この重要な出来事を機に、不断はチャーミングで冷静なオッペンハイマーの説得力は失われた。