President Woodrow Wilson (1919)
Japanese American farmer
米民主党に差別撤廃は可能か?
2019年9月27日 日経ビジネス電子版
日本人は一般的に「民主党は労働者・低所得者のための政党、共和党は資本家・高所得者のための政党」というイメージを持っている。
だが、シリコンバレーを抱えるカリフォルニア州、シアトルのあるワシントン州、リベラルな知識層が多いといわれる東北部諸州を基盤とする民主党には、基本的に富裕層が多いという点を忘れがちだ。つまり、民主党は富裕層と共に黒人や白人の低所得者層を党員として抱えており、民主党内で富裕層と低所得者・貧困層とが分かれていることに思いが至らない。
しかも、民主党がこの10年間(2008年から2018年まで)でさらに高学歴・高所得層のための党になっており、黒人や他の低所得者層と裕福な民主党員との間で党内の格差も広がっている。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00057/092500014/
『世界史の新常識』
文藝春秋/編 文春新書 2019年発行
近現代
奴隷解放宣言の狙いは
リンカーン(共和党)が南北戦争勝利の演説をホワイトハウスで行ったのは1865年4月11日のことである。彼はアメリカを強力な連邦国家として再建すると強く訴えた。この3日後にリンカーンは暗殺された。
リンカーンの死後も共和党は黒人の民事的な契約行為の自由と、刑法の白人黒人の均霑(きんてん)適用(等しくあてはめる)を保証する市民権法を提出した(1866年)。議会で多数派を占める共和党は次々と黒人の権利を認める法案を上程した。
同年6月には憲法第14条を修正し黒人の市民権の保障を決めた。1869年には憲法第15条を修正し黒人参政権を認めた。39体13での可決だったが賛成は全て共和党議員、反対は民主党議員であった。議会で通貨した黒人の地位向上の諸法案に、時に拒否権を発動し嫌がらせをしたのはリンカーン暗殺を受けて大統領となったアンドリュー・ジョンソンだった。
連邦政府レベルでは、共和党が黒人の法的権利の改善を続けた。しかし、南部諸州で強い勢力を持つ民主党は黒人差別政策を進めた。1866年には黒人や黒人擁護派の白人をターゲッとするテロ集団KKKが生まれた。結成に関わったネイサン・フォレストは旧南軍陸軍士官で民主党員だった。ユニシーズ・グラント政権(共和党)をKKKのテロ活動を抑え込む施策をとると、彼らの活動はいったんは下火になっている。
民主党は黒人隔離政策に熱心に取り組んだ。南部保守層の北部への恨みは強い。それを利用して民主党は南部白人の団結を訴え、党勢の回復を狙ったのである(Solid South政策)。黒人は隔離すべきだとの主張は南部白人の心を掴んだ。民主党は州議会を通じて黒人隔離(差別)行為を合法化する州兵(ジム・クロウ法と総称される)次々に成立させた。映画館、トイレ、バス、水飲み場に黒人専用エリアを設けた。州政府(警察含む)は職員に黒人を採用しなかった。新聞社もそれにならった。
こうした州法をベースにした黒人差別政策に共和党もお手上げとなった。市民権運動家ホーマー・プレッシー(共和党員)はその血の8分の1が黒人だった。ルイジアナ州の鉄道に乗車した際、黒人専用車席へ座ることを要求された。プレッシーは黒人隔離を認める州法を違憲として連邦裁判所に訴えた。しかし民主党支持の判事が多数派の最高裁判所は州法を合憲とした(1896年)。唯一その判断に反対したジョン・ハーラン判事は、「我が憲法は色盲か」と嘆いた。ハーラン判事はケンタッキー州出身だが共和党員であった。リンカーン政権が目指した奴隷解放の実質は南部諸州ではなし崩しにされたのである。
移民排斥への道
大陸横断鉄道が開通(1869年)すると東部からアイルランド移民を中心とするプアーホワイト(白人貧困層)がカリフォルニアに押し寄せた。彼らは支那人移民と職を奪い合った。支那(清国)からの移民は鉄道建設の現場や炭鉱で低賃金にもかかわらず真面目に働いていた。
しかし白人労働者には選挙権という武器があった。彼らは労働組合や政治家を使って支那人労働syの排斥に成功した。支那人排斥法(1882年)により支那からの移民をきんじたのである。
支那人の次にターゲットとなったのが日本人だった。日本人移民の数は少なかったが、白人の職場を奪う唾棄すべきアジア人の象徴とされた。それが現実となったのがサンフランシスコ学童隔離事件(1906年)だった。白人児童と共学していた日本人児童を支那人学童専用学校に移し隔離を決めた。支那人排斥法が存在している中での措置だっただけに、日本人が次の人種差別のターゲットとなったことは明らかだった。
ウィルソンの人種差別政策
上述のように、アメリカの政府は南部諸州では人種差別政策をとる民主党が主導権を握ったが、連邦政府の政治は共和党が担ってきた。ジョンソン政権後には共和党ユリシーズ・グラント政権となり以後共和党の大統領が続いた。グラント大統領以降ウッドロー・ウィルソン(民主党)が大統領に選出されるまで9人の大統領が出たが、8人は共和党であった。唯一民主党の大統領にグローバー・クリーブランドがいるが、これは個人的人気に依(よ)ったものだった。民主党はあくまで南部諸州を基盤にした地域政党だったのである。
しかし1912年の大統領選で民主党に好機が訪れた。共和党が分裂したのである。共和党予備選に敗退したセオドア・ルーズベルトが新党進歩党を結成し、現職のウィリアム・タフトに挑戦した。漁夫の利を得て当選したのがウッドロー・ウィルソン(元プリンストン大学学長)だった。カリフォルニア州の長老派牧師であり、南軍兵士のために祈った。「奴隷制度は神が創りたもうた」と説いた。ウィルソンは、1875年にプリンストン大学に入学するまで南部で育った。彼にとって黒人解離は日常であった。
大統領に就任すると連邦政府組織にまで隔離精度を導入した。首都ワシントンで初めて白人と国民の職場を分離したのである。共和党の大統領の時代には考えられないことだった。
アメリカ建国の父たちは、ヨーロッパ問題へは介入してはならないとしていた。1823年にはジェイムズ・モンロー大統領は、「アメリカはヨーロッパ問題に介入しない。同時にヨーロッパ諸国は、アメリカ大陸の問題には口をはさむな」と訴えた(モンロー宣言)。この国定ともいえるヨーロッパ問題非介入の原則に反し、ウィルソンは第一次世界大戦に参戦し(1917年4月)、恒久的な世界平和を実現するための戦いであると国民に訴えた。人種差別主義者が世界の恒久和平を訴える奇妙な現象であった。この矛盾が国際聯盟(れんめい)創設を議論するパリ講和会議の場で露呈した。
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皮肉なことにウィルソン大統領は日本の主張を退けたものの、ワシントン議会の承認を得られなかった。聯盟のメンバー国にはなれなかったが、オブザーバー参加を続け、聯盟の決定に関わり続けた。ウィルソン政権後は共和党が政権を奪還し、ハーディング、クーリッジ、フーバーと共和党の大統領が再び続いた。両党にとって不幸だったのは、1929年10月のニューヨーク証券市場の暴落に端を発した世界不況で、フーバー政権の人気が急落したことだった。
フーバーの後を襲ったのはフランクリン・デラノ・ルーズベルト(FDR)だった。ニューヨーク州出身ではあったが、人種差別意識の強い典型的な民主党の政治家だった。FDRは、南部で続く黒人リンチを禁止する法案(共和党提出)に対して徹底的に冷淡であった。ホワイトハウスの記者会見から黒人記者を排除した。真珠湾攻撃後には、強制収容政策を日系移民にだけ適用した。アメリカ国民となっていた日系人も半砂漠の土地に閉じ込めた。FDRは日本とドイツの敗戦を前に死亡し(1945年4月)、副大統領のハリー・トルーマンが後を襲った。
トルーマンもミズーリ州出身の人種差別思想の強烈な人物だった。KKKの元メンバーでもあった。トルーマンが、日本への原爆使用に躊躇しなかったのはそのためであろう。トルーマンが広島への原爆投下が「無事」成功したとの報を聞いたのはポツダム会談からの帰途の大西洋上であった(1945年8月7日)。水兵らと昼食を共にしていたトルーマンはその「即報」を聞くと喜びのあまり立ち上がり、「艦長、まさに史上最高の瞬間ではないか!」と叫んだ。