じじぃの「人の死にざま_1324_蘇我・入鹿」

蘇我入鹿 暗殺の謎」 そのとき歴史が動いた(4/4) 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=mKvn5vleSAw
【社会】  歴史−12 飛鳥時代② ・ クーデター編 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=JB7D8JedOoc
蘇我氏 系図

飛鳥寺の復元イメージ

蘇我入鹿日本書紀では悪人のように書かれてますが、実際はどんな人物だったのでしょうか? 2009/4/7 Yahoo!知恵袋
回答
日本書紀やその後の歌舞伎などで悪の権現のように描かれていますが、実際は大変な秀才だったと聞きました。
ただ、あまりに自惚れるあまり周りの状況を把握して行動をする事を知らず、大勢の敵を作ってしまったというのが実際のようです。
人間は秀才だからと言って出しゃばると出る杭は打たれるというようになるそうです。20年程度はおとなしくしていて周囲をよく観察し動けばよかったといわれていたそうです。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1324446728
蘇我入鹿 ウィキペディアWikipedia)より
蘇我 入鹿(そが の いるか、推古天皇18年(610年)? - 皇極天皇4年(645年)6月12日)は、飛鳥時代の豪族。
大臣として大和朝廷の有力者であったが、大化の改新の前夜乙巳の変において討たれ、その後蘇我氏が凋落するきっかけとなった。
【学説】
日本書紀』は入鹿の事績を蘇我氏の越権行為ならびに古人大兄皇子への皇位継承の準備と批判しているが、蘇我氏は元来開明的だった事もあり、唐や百済等当時の国際状況に対応する為だったという意見もある。実際、「上の宮門」「谷の宮門」の跡地とされる場所からは、武器庫の遺構や武器が発掘されている。また、遣唐使も度々派遣されており、唐の日本派兵を蘇我氏が警戒していたことが伺える。
入鹿の暗殺とそれに続く蘇我本宗家の滅亡に関して、近年では、改革の主導権争いを巡る蘇我氏と皇族や反蘇我氏勢力との確執が暗殺のきっかけになったとする見方がある。
また、蘇我入鹿という名前は、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)によって、これまでの名前を資料とともに消され、卑しい名前として彼らが勝手に名付けたものであるという説もある(門脇禎二ら説)が、これには反証が試みられている(加藤謙吉)。

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知恵泉スペシャル 敗者に学べ! 「歴史に消えた敗者たち 彼らはなぜ負けたのか」 2014年3月29日 NHK Eテレ
【司会】井上二郎 【出演】山本博文東京大学史料編纂所教授)、本郷和人東京大学史料編纂所教授)、秋元康石井正則
今回は45分拡大版。日本史上、高い能力を持ちながらも「敗者」となった人々に注目する。平家や石田三成蘇我氏らは、なぜ負けたのか。そこに共通する要因はあるのか?
平家、石田三成蘇我入鹿…。歴史上、能力を持ちながらも「敗者」となった人々は数多い。今回は、45分拡大版「知恵泉スペシャル」。古代、中大兄皇子に討たれた蘇我氏を中心に、日本史全体を見渡して敗者に大注目。「彼らはなぜ敗れたのか」「なぜ“悪者”とされるのか」、さらには「敗者に共通する要因はあるのか」などの壮大な歴史談義にトライする。日本書紀のナゾなど、古代史ミステリーも必見。
http://www4.nhk.or.jp/chieizu/x/2014-03-29/31/899/
3月29日 NHK Eテレ 知恵泉スペシャル 敗者に学べ! 「歴史に消えた敗者たち 彼らはなぜ負けたのか」より
古代、絶大な勢力を誇った蘇我氏蘇我氏の族長 入鹿は天皇にとって代わろうとした逆賊として、中大兄皇子らにより暗殺されます。
敗者となった蘇我氏。しかし、近年の研究では蘇我一族は公共事業や外交政策など、国家に大きな貢献をしていたことが明らかになっています。
一体なぜ、蘇我氏は敗者になってしまったのでしょうか。
敗者に学べ
奈良県・明日香村。日本がまだ倭国と呼ばれていた奈良世紀。都が置かれていた場所です。
645年6月12日、ここで大事件が起こります。
絶大な勢力を誇った豪族 蘇我入鹿天皇にとって代わろうとした逆賊として、中大兄皇子たちの手により暗殺されたのです。
中大兄皇子らにより暗殺
これ以降、蘇我氏は没落します。敗者となった蘇我氏。一体どのような歴史を辿った一族だったのでしょうか。
元々、国の財政管理を司っていた蘇我氏天皇に娘を嫁がせるなどして、次第に強大な権力を握っていきます。
一族は大きな特徴として、代々鋭い国際感覚をもっていました。繁栄の礎を築いたのは蘇我馬子です。6世紀後半、馬子はあの聖徳太子と共に大きな事業を進めます。仏教の導入です。仏教によって国をまとめようというねらいでした。
さらに、大陸や朝鮮半島で信仰されている仏教を取り入れることで、倭国を文明国としてアピールする目的もありました。
仏教は最先端の土木建築技術ももたらしました。馬子は日本初の仏教寺院 飛鳥寺を建立します。当時は現在の20倍の広さ。絢爛豪華な伽藍は大陸からの使者をも驚嘆させたといいます。
馬子は国の威信を見せつける公共建築を自らの手で造ったのです。
馬子の跡を継いだのは息子の蝦夷氏。蝦夷氏は馬子の路線を引き継ぎ、外国との交流を積極的に推し進めます。
618年、唐 成立。中国に統一国家唐が成立しました。その情報に鋭く反応した蝦夷氏は遣唐使を派遣することを決定。唐の脅威から倭国を守るため、友好関係を築きます。
優れた外交手腕をもっていた馬子と蝦夷氏。それは蝦夷氏の息子、入鹿も同じです。
入鹿は若い頃から秀才で知られていました。入鹿に並ぶ者はいないと絶賛された記録が残っています。入鹿は実験を握ると、朝鮮半島に対する外交政策を変更することを決めます。
それまで倭国は特に百済と密接な関係を結んでいました。
642年、百済新羅に侵攻したことで事態は一変します。新羅は大国唐と同盟を結んでいました。
このまま百済との関係を重んずれば唐の脅威にさらされる。そう考えた入鹿は新羅とも国交を結び、等距離外交を進めました。
鋭敏な国際感覚によって大局的な目から国の政治を主導してきた蘇我氏。しかし、そんな彼らに対して反発する勢力がありました。中大兄皇子中臣鎌足です。
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蘇我入鹿、「私は何もしていない」
出る杭は打たれる、というのもひとつの真理なのだという。