DNAでみる古代日本人と朝鮮人【日本語字幕】 動画 Youtube
http://www.youtube.com/watch?v=ju2oToXNbKU
5世紀の朝鮮 (百済)
広開土王碑
任那は存在した? (日本側の任那存在説VS韓国側の任那非存在説) 2005/11/11 教えて!goo
●日本側の主張
「宋書」「広開土王碑」「日本書紀」が証明する『任那』。
広開土王碑には次のような記述も見られる。
曰く「大軍をもって新羅城を奪還すると、撤退する倭兵の背後から任那加羅まで急追していった」
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/1771530.html
そもそも、任那日本府ってあったんですか? 2008/3/24 Yahoo!知恵袋
回答
結論から言えば、任那という地域は日本の影響下にありました。
ただ、日本府という役所が在って、日本が完全に支配していたとまでは言えるかどうか微妙です。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1415463884
歴史秘話ヒストリア 「日本にもあった?謎の巨石文明 〜目覚める 飛鳥“石の女帝”〜」 (追加) 2014年10月21日 NHK
【案内役】渡邊あゆみ 【配役】斉明天皇 役&ヒストリアンヌ 高島礼子
●エピソード1 巨石群の伝説と珍説を訪ねる飛鳥の旅
キツネが踊る舞台と伝えられた石舞台。傾くと不作になるといわれたマラ石。10トンを超える亀石は実は動いていて、西を向いたとき奈良盆地が水没……明日香(飛鳥)の石造物にまつわる伝説を訪ねる今回のヒストリアンヌ、女優の高島礼子さん。そうした奇怪な巨石の中には、実は謎解決の手がかりも?
●エピソード2 石の都を築いた “石の女帝”
飛鳥の巨石群を造った人物として、近年注目されているのが女帝・斉明天皇。彼女の時代、東アジア情勢は緊迫しており、朝鮮半島の百済の国が滅亡寸前でした。その百済の遺跡では、飛鳥とそっくりな石の都が出現!これは何を意味する?そして、女帝が石の都と巨石を用いて催したのは盛大なパーティー!?
朝鮮・百済といえば日本文化と切っても切れない昔の朝鮮半島の三国時代の有名な国。
王宮里遺跡の発掘が進められている益山(イクサン)が百済の王都であったという王都説が浮上している。
http://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/217.html
任那日本府 ウィキペディア(Wikipedia)より
任那日本府(みまなにほんふ)とは、『日本書紀』の雄略紀や欽明紀などに見える、古代朝鮮半島南部の伽耶の一部を含む任那にあった倭国の出先統治機関。
宋書倭国伝の記述にも任那という記述が見られ、倭王済や倭王武が宋 (南朝)から任那という語を含む号を授かっている。
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『街道をゆく〈2〉』 司馬遼太郎/著 朝日新聞社 1972年発行
駕洛(カラク)国の故地 (一部抜粋しています)
朝鮮の上代史は系譜的にのべることはむずかしい。四捨五入してごく図式的にいえば、はじめにはじめに三韓(馬韓、辰韓、弁韓)時代があり、ついで三国(高句麗、百済、新羅)時代がきて、やがて新羅が統一をするということがいえる。
この三国のうち、高句麗は北方にある。民族の感じも、あるいは風俗や言語まで韓族とはちがっていたらしい。韓族の国が、南のほうの漢族、新羅・百済だが、ところがこの両国にはさまれてちっぽけな国がひとつあった。洛東江の下流がうるおしている穀倉地帯にあり、それがいまの地名でいえば金海付近にあった。
その国名は、いろんなふうによばれていた。みな同国を指すのだが、列挙すると、
金官国
駕洛国
加羅(から)国
伽椰(かや)国
任那(みまな)国
などとよばれる。
最盛期は非常に大きかったという説もあれば、そうでなくいまの釜山から金海あたり一帯程度がその領域だったという説もある。
日本列島にまだ国家が成立していなかったころ、さかんに倭人(日本人)がここへ往来し、なかには住みついてしまった者もあり、それよりさらに数多くの駕洛国の国人が日本地域にやってきて住みつき、耕地をひらいた。その往来が非常にひんぱんだったということは、日本の古事記・日本書記からも、魏志からも、いくつかのヒントを得ることができる。
朝鮮の民間伝承でも、
「釜山・金海あたりの連中は、厳密には倭人であって韓人では」
ないというのがあるそうだ。上代では、駕洛国だけが、他の韓人とちがった風俗をもっていたともいわれる。
ちかごろになると、
「倭人というのはかららずしも日本人のみを指さない。上代のある時期までは、南朝鮮の沿岸地方から北九州をふくめての地域の呼称もしくは諸族の呼称であった」
という説得力に富んだ説まで出ている。さらにまたこの駕洛国のひとびとが日本に弥生式農法と文化をもってきた、ともいう。
駕洛、朝鮮音では、
「Kalak」
である。日本にくると子音の単独発音ができないから最後のkが落ち、カラになる。加羅も当てた漢字のちがいだけで、要するにおなじことばである。伽椰も同様で、l音はy音にかわりやすいためにカラがカヤになったとみていい。
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日本の古事記では、この駕洛国のことを、
「任那」
という。平凡社の「世界大百科事典」でも、「任那」の項で、
「4世紀の半ばごろから6世紀の半ばごろにわたる200年間、日本が南部朝鮮に持った植民地領域の名」
と、書かれている。「植民地」というヨーロッパ的概念のことばを任那の場合につかうのは、適当ではない。
そういうばかなことはない、という説が、朝鮮の学者からいろいろ出ている。駕洛人こそ日本列島へ進出したのだ、と説くのが、朝鮮民主主義人民共和国の金錫亨氏である。江上波夫氏の「騎馬民族国家」も大筋はそうである。日本の崇神天皇の名前がミマキイリヒコというが、そのミマは任那のミマであると江上氏は言い、「任那こそ日本の出発点であった」という。いずれも、じつにおもしろい。
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どうでもいい、じじぃの日記。
倭国(日本)が中国の歴史文献において266年から413年にかけて記述がなく、この間を空白の世紀というのだそうだ。
松本清張著 「空白の世紀 清張通史2」によれば、古代、朝鮮と日本はあたかも陸続きのように交流があったそうだ。
だから、韓国の釜山から九州にかけて同じ民族(倭人)が住んでいた。
だいたい、日本人といってもほとんどが、朝鮮からの帰化人なのではないだろうか。
それにしても、2000年も経つとこうも変わるものだろうか、と思う。