じじぃの「神話伝説_10_鬼室・福信(鬼室集斯)」

鬼室集斯の墓

5世紀の朝鮮 (百済

歴史秘話ヒストリア 「日本にもあった?謎の巨石文明 〜目覚める 飛鳥“石の女帝”〜」 2014年10月21日 NHK
【案内役】渡邊あゆみ 【配役】斉明天皇 役&ヒストリアンヌ 高島礼子
●エピソード1 巨石群の伝説と珍説を訪ねる飛鳥の旅
 キツネが踊る舞台と伝えられた石舞台。傾くと不作になるといわれたマラ石。10トンを超える亀石は実は動いていて、西を向いたとき奈良盆地が水没……明日香(飛鳥)の石造物にまつわる伝説を訪ねる今回のヒストリアンヌ、女優の高島礼子さん。そうした奇怪な巨石の中には、実は謎解決の手がかりも?
●エピソード2 石の都を築いた “石の女帝”
 飛鳥の巨石群を造った人物として、近年注目されているのが女帝・斉明天皇。彼女の時代、東アジア情勢は緊迫しており、朝鮮半島百済の国が滅亡寸前でした。その百済の遺跡では、飛鳥とそっくりな石の都が出現!これは何を意味する?そして、女帝が石の都と巨石を用いて催したのは盛大なパーティー!?
朝鮮・百済といえば日本文化と切っても切れない昔の朝鮮半島三国時代の有名な国。
王宮里遺跡の発掘が進められている益山(イクサン)が百済の王都であったという王都説が浮上している。
http://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/217.html
鬼室集斯 ウィキペディアWikipedia)より
鬼室 集斯(きしつ しゅうし、生年不明 - 持統天皇2年(688年))は、7世紀の百済の貴族。百済復興運動で活躍した鬼室福信の縁者。百済における官位は達率、日本亡命後の日本における官位は小錦下・学職頭。
天智天皇2年(663年)の白村江の戦いの後に一族とともに日本へ亡命。『日本書紀』によれば、鬼室集斯は天智天皇4年(665年)2月に小錦下の位に叙せられた。佐平福信の功によって、とあるため、百済復興に努めて2年前に死んだ鬼室福信の近親者と思われるが、具体的な関係は不明である(鬼室福信の子とする系図もある)。集斯の百済での位は達率であった。書紀はこれに続けて百済の男女400余人が近江国神前郡(後の神崎郡)に住まわされたと記すので、集斯も同じと推定できる。3月に神前郡の百済人に田が与えられた。

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街道をゆく〈2〉』 司馬遼太郎/著 朝日新聞社 1972年発行
近江の鬼室集斯(きしつ しゅうし) (一部抜粋しています)
姓は鬼室、名は福信。
百済滅亡期に出現した英雄的活動家であったことはすでに触れた。百済が滅び、義慈王が唐の捕虜になって船にのせられ、中国へ連れ去られて行ったあと、鬼室福信は百済の遺民をかきあつめてあちこちの山城に拠り、いわばゲリラの総司令官になって王室の復活のために奮戦した。
それだけに、あくのつよい人物であったとおもわれる。
日本に救援を求めたのは、この鬼室福信である。当時日本にいた百済王子豊璋をむかえて王として奉じた。豊璋が帰国するにあたって、日本は護衛兵団をつけたが、これが日本から送られてきた一次援軍になった。この第一次援軍のおかげでゲリラ戦は大いに勢いをもりかえし、一時は再興運動も成功するかにみえた。
「すべておれのおかげだ」
という成功した英雄のもつ傲(おご)りが、この鬼室福信の態度を肥大させたのにちがいない。中国のことばだったか、人間は災難の時期には同志愛で結束するが、成功して共に富貴になると仲間割れがおこるという。災難のとき鬼室をたすけてその副首領格、もしくは同格の立場で働いた僧道琛も、小成を得て英雄的自己肥大をおこしたかとおもえる。ちなみに鬼室福信は百済王族の出身で、僧道琛もそうであったらしい。貴族がもっている他の人間への思いやりのなさということも、この両人に共通していたのかもしれない。
「鬼室福信のやつはてめえひとりの力で百済の再興(とはいえ実際はゲリラ戦における一時期成功にすぎないのだが)ができたと思ってやがるのか」
と、僧とはいえ手腕家の道琛は毒焔を吐くような勢いで鬼室福信を攻撃していたであろう。実のところ、当時、統一国家の体裁らしきものをととのえたばかりの日本に対し、海を越えて救援軍を派遣してほしいという、どう考えても困難な外交交渉を成功せしめた実務者はこの僧道琛であった。道琛にすれば当然ながら功績の大半は自分にあるとおもっていた。
しかしながら鬼室福信にすれば、王族である自分の名前の重味によって日本は動いたと思っていたに相違なく、道琛の大きな面(つら)が気に入るはずがなかった。この僧を殺してしまった。ここにはじめて鬼室福信の独裁権が確立し、百済再興の大成はすべてかれに帰せられた。が、「功烈主ヲ凌グ者ハ殺サル」だったが、福信に擁立されて王になった豊璋は福信の威望の大きさに嫉妬して福信を殺した。百済独立運動はこういう内紛によって弱体化し、結局は再び大挙してやってきた唐軍によって壊滅してしまうが、さてこの栄光の鬼室氏のその後のことである。
「鬼室集斯の墓が、近江(滋賀県)の山村にありますよ」
という話をきいたのは去年(昭和46年)の寒いころであった。きいたときにはにわかに信じられず、やがて実際に人が行ってきたという話をきいて、驚いてしまった。その墓石が神体になって神社のかたちをとっており、村人によって千数百年という長い歳月、ずっと護持されているという。しかもいまも命日の日には祭礼がおこなわれているというのである。