じじぃの「神話伝説_90_温祚王(百済の初代王)」

よくわかる日本と朝鮮半島の古代史【学校やNHKでは教えてくれない事実】 動画 Youtube
https://www.youtube.com/watch?v=YRsM46sS2W0
5世紀頃の朝鮮

百済 ウィキペディアWikipedia)より
百済(くだら)は、古代の朝鮮半島南西部にあった国家(346年? - 660年)。
朝鮮史の枠組みでは、半島北部から満州地方にかけての高句麗、半島南東部の新羅、半島南部の伽耶諸国とあわせて百済の存在した時代を朝鮮半島における、三国時代という。新羅を支援した唐によって滅ぼされ、故地は最終的に新羅に組み入れられた。
温祚王 ウィキペディアWikipedia)より
温祚王(生年未詳 - 後28年)は百済の初代の王(在位: 前18年 - 後28年)。源流を扶余に求める神話を持ち、氏は扶余、または余とする。
【建国神話】
百済の始祖については、少なくとも3種の異なる系譜が伝えられているが、いずれも扶余につながるものとなっている。また、後に日本に渡来した百済系の人たちの間では、その始祖を都慕王(ともおう、朱蒙)としていたとも伝わる。
三国史記百済本紀
温祚の父は鄒牟または朱蒙チュモン)(高句麗の始祖)といい、北扶余から逃れて卒本扶余(遼寧省本渓市桓仁満族自治県)に着いた。扶余王には男児が無く娘が3人いたが、朱蒙の人となりを見て非凡の人であるとして2番目の娘を嫁がせた。その後、扶余王が亡くなったので朱蒙が王位について、2人の子をなした。長子を沸流(ふつりゅう)、次子を温祚(おんそ)といった。

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『世界神話伝説大系 12 朝鮮の神話伝説』  中村亮平/編 名著普及会 1929年発行
百済の始祖沸流と温祚 (一部抜粋しています)
高句麗朱蒙が、北扶余から難を逃れて卒本扶余へ参りますと、そこの王様には王子がございませんでした。ただ三方の王女があらせられたばかりだったのであります。王様はたいへん王子をお望みになられていたところですから、朱蒙をその王女におめあわせになりました。殊に朱蒙は並々ならぬ才能を持っていましたので、早速そうなされたのであります。
やがて王様がおなくなりになると、朱蒙はその後を嗣(つ)いで王位におつきになりました。そして間もなく二王子をおもうけになりました。
長子を沸流(ふる)といい、次子を温祚(おんそ)と申しました。そしてだんだんご成人なされた。そこへ朱蒙が北扶余の方でおもうけになった王子の類利(るいり)が、そのお母さんとこれも逃れてやって参りました。
すると朱蒙王はたいへんお喜びになって、迎え入れて太子となさいました。
それを知った沸流と温祚は、もし太子と仲が悪くなるようなことがあってはならぬと思って、お側の臣の鳥干(うかん)や馬黎(ばれい)ら10人許りを連れて、南の方にこっそりと移って、漢山という山の中に入ってしまいました。
そして、まず負児岳(ふじがく)に登って、どこか都を始めるにいいような所はないかと眺め回しました。
そのとき沸流がはるか海の方を望みますと、堪らなくその海浜の方に心が惹かれましたので、そこに住もおうと申しますと、10人の臣たちが異口同音に戒めて、
「私の考えますには、この河南の地方は、北の方に漢口をめぐらし、東の方は南岳に拠っているし、南は遠く肥沃な平野が続き、西は海に臨んで天然の地勢がまことに得難い所でありますから、よろしくここに都をお定めになられては」
と口々に申し上げました。
しかし沸流は、どうも海辺の方に心が動いていましたので、臣下のうちのある人たちを連れて、弥鄒忽(みすうこつ)といういまの仁川の近くに都することになりました。
温祚は河南の慰礼城(いれいじょう)に都して、10人の臣下を引き津れ、輔翼(ほそく)として政(まつりごと)を治めましたので、国号を十済(じゅうさい)と名づけました。
すると沸流は、弥鄒忽の土地があまりに湿気が多くて済むに堪えませんので、慰礼の方を見返りますと、ここでは皆安泰に暮らしていますので、自分と一緒に移って来た臣たちにもすまなく思いました。それでとうとうその過ちを悔いて死んでしまったのであります。
沸流が死んでしまいますと、その臣たちは皆慰礼に戻って、一緒に温祚に仕えることになりました。
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初め温祚が南の方に下って参りましたときに、多くの百姓たちも一緒に皆喜び楽しんで従って来ましたので、後で国号を改めて百済(くだら)と呼ぶことになりました。こうして百済の都はいよいよ永く後の世までも続くことになりました。