満洲も韓国領土? 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=HOEZqz7CpCE
騎馬民族説 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=GPNlHp4vKG8
紀元前30年頃の高句麗
騎馬民族征服王朝説 江上氏の雄大な仮説
(1)先ず4世紀前半、崇神天皇(すじんてんのう)を中心とする東北アジアの外来民族(騎馬民族の夫余族)が南朝鮮に南下し、更に北九州にも住み着いた。倭国(日本の天皇家)も百済も高句麗も扶余族の出である。
http://www.eonet.ne.jp/~etizenkikou/oujinn.htm
東明聖王 ウィキペディア(Wikipedia)より
東明聖王(紀元前58年 - 紀元前19年)は、高句麗の初代(在位:紀元前37年 - 紀元前19年)とされる指導者であり、東明王とも呼ばれる。姓は高、諱は朱蒙(しゅもう、チュモン)または鄒牟(チュモ)、衆解(チュンヘ)とされる。扶余の金蛙王(きんあおう)の庶子とされる。扶余の7人の王子と対立し、卒本(ジョルボン 遼寧省本渓市桓仁)に亡命して高句麗を建国、初代指導者となった。
【扶余の建国伝説との比較】
「扶余の始祖としての東明」の伝説は、古くは『論衡』吉験篇に見られる。また、『三国志』夫余伝が『魏略』からの孫引きとして伝えており、これらの史書の中の高句麗伝では、始祖伝説は見られない。『魏書』に至って扶余伝はなくなり、代わりに高句麗伝のなかで高句麗の始祖伝説が伝えられるようになった。
その伝説の骨子は、元来の東明伝説(扶余の建国神話)に、河伯(水神)の外孫であること、卵生であること、という要素が加わって、高句麗が扶余から出たこと、名を朱蒙とするというものである。また、東明伝説において東明が弓術に優れていたとするのと呼応するように、「朱蒙」という語は「善射」を意味する、とも書かれる。後に高麗の時代になって、『三国史記』(1145年撰上)では、高句麗の始祖を「諱が朱蒙、諡が東明聖王」とするようになり、高麗の詩人である李奎報(1168年-1241年)の叙事詩「東明王篇」(1194年)においても、高句麗の始祖を東明王と同一視するようになった。さらには『三国遺事』の時代になって民族的統合の象徴として檀君に系譜化され、「東明王である朱蒙は檀君の子である」とされるようになったと考えられている。
夫余 ウィキペディア(Wikipedia)より
夫余(ふよ、夫餘)は、現在の中国東北部(満州)にかつて存在した民族およびその国家。扶余(扶餘)とも表記される。
・井上秀雄、他訳注『東アジア民族史1−正史東夷伝』「(高句麗、夫余の)両族は、ともにツングース系と考えられている。両族が同系であることは始祖神話(東明・朱蒙伝説)の類同によっても推測できよう」
・南出喜久治「私の見解では、高句麗は、建国の始祖である朱蒙がツングース系(満州族)であり、韓民族を被支配者とした満州族による征服王朝であつて、韓民族の民族国家ではないと考へている」
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『日本書紀に封印された「謎」』 関裕二/著 宝島社 2012年発行
韓流ドラマでも人気! 高句麗の英雄・朱蒙の摩訶不思議な伝説 (一部抜粋しています)
高句麗とは、古代中国の言葉で「高い天空」を意味する。この国を築いた伝説的な英雄の朱蒙は、当時の満州に住んでいた扶余族の出身といわれる。のちの歴史書『三国遺事』などに伝えられる朱蒙の出生譚は、なかなか奇抜なものだ。
朱蒙の父は天帝・解慕漱(ヘモス)。彼は河伯(水の神)を母にもつ娘の柳花(ユファ)に強引に関係を迫って妊娠させる。低層にきびしかった柳花の親は、娘を東扶余に追放してしまう。柳花は、東扶余を治める金蛙(クムワ)王のもとで大きな卵を産んだ。金蛙王はこの卵を河伯に返したが、卵からは立派な男の子が現れる――この子が朱蒙だ。
まるで桃から生まれた桃太郎や、石の卵から生まれた孫悟空のようではないか!
じつは、新羅や伽耶の王も、同じく卵から生まれたという伝説がある。
朱蒙は幼いころから文武ともに非凡な才を発揮する。7歳で弓を作り、射れば百発百中の腕前だった。扶余族では弓をじょうずに射る者を朱蒙と呼ぶため、この名がついたという。ところが、しだいに金蛙王の息子たちが朱蒙をねたみ、朱蒙は母の助言によって東扶余を離れ、卒本州(現在の中国遼寧省)で高句麗を建国したという。
このような伝説が残る朱蒙だが、史実では初期の高句麗は苦難に直面している。西暦8年に王莽(おうもう)が前漢を滅ぼし、周辺地域を武力で脅した。高句麗の王を「王」よりも格下の「候」として扱った王莽は、国名を「下句麗」とする、なんとも意地の悪い改名をさせている。
しかし、王莽を倒した高官の光武帝は、争いをさけるためふたたび高句麗の国名と王の格を復活させた。