じじぃの「神話伝説_91_箕子朝鮮(前3世紀ごろ)」

紀元前の朝鮮半島

箕子朝鮮 ウィキペディアWikipedia)より
箕子朝鮮(紀元前12世紀? - 紀元前194年)とは朝鮮に存在したという中国の伝説上の王朝。その建国の祖である箕子は中国の殷に出自を持つ。この伝説がどの程度に史実を反映しているのかについては後述のように諸説が分かれている。
史記』によれば、始祖の箕子(胥余)は、中国の殷王朝28代文武丁の子で、太師となるに及び、甥の帝辛(紂王)の暴政を諌めた賢人であった。殷の滅亡後、周の武王は箕子を崇めて家臣とせず、朝鮮に封じた。朝鮮侯箕子は殷の遺民を率いて東方へ赴き、礼儀や農事・養蚕・機織の技術を広め、また「犯禁八条(八条禁法)」を実施して民を教化したので、理想的な社会が保たれたという。

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『世界神話伝説大系 12 朝鮮の神話伝説』  中村亮平/編 名著普及会 1929年発行
箕子(きし)の話 (一部抜粋しています)
昔、いまから3000年も前に中国の国に、箕子といってたいへん徳望の高い人がありました。
箕子は殷の紂王(ちゅうおう)の太師(たいふ)となって、よく王様のために尽くしました。その上学徳が秀でていたので、孔子にまでひどく賛美されて、王子の比干(ひかん)とそれから微子(びし)と共に、殷の「三仁」とまでいわれていました。
そして世間からも崇敬されていましたが、紂王はたいへんお心のよくない王様でありましたので、それを見兼ねた箕子が何くれとなくお諫(いさ)め申し上げました。ところがそれが却ってお気に触れることとなって、とうとう囚われの身となってしましました。
等しく三仁といわれた方々も、ある人は殺され、ある人は追われて、誰も誰も厳しくさいなまれてしまいました。
間もなく周の武王が紂王を伐(う)って、とうとう紂王は滅されてしまいました。
すると武王は、徳望の高い箕子をお招きになって国を治める術をお尋ねになりました。それから箕子は、はるばる朝鮮の地に渡って檀君のあとを受けつぐことになりました。
元より聡明な方でありましたから箕子の政(まつりごと)は、それはそれは慈しみに満ちていましたので、その善政に誰も彼も、嬉しく喜ばない者はありませんでした。
箕子は平壌に都を定めて、まず第1に礼儀を授けられました。それから田畑を耕す法や、蚕を養(か)うことや、織物の織り方まで、多くの人たちの職業を何1つとして授けられなかったことはありませんでした。
それから今度は8つの規則を設けて、よいお百姓さんたちのために、安心してその業についていられるようにと考えました。
もし人を殺すような者があればその罪は重いので、仕方がないからその人の命をもって償うことにした。喧嘩をしたり乱暴をして、人を傷つけたり騒がせたりした者は、その罪によって穀物をいくらかずつ傷ついた人に贈って、謝罪の心持を表すようにさぜました。それからもし盗みを犯した者には、その家に行って家僕をつとめることと致しました。もしそれが女でしたらやっぱり家婢として、その程度によって、或は永く、或は短く、その家のために心から尽くさせて、罪を償わせることになっていました。
すると皆はよくその禁を守って、お互いに犯し合うようなこともなく気持ちよく暮らしていましたが、ひょっとしてその八か条の禁を犯すようなことがあれば、自ら申し出てその罪の償いを進んで果たしていくようになったということです。そうして自ら申し出た者が50万人にも達するようになりました。
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都に住む人も、田舎の人も、みな箕子の徳望になついて、本当によく治まりました。悪いことや乱暴を働く男もなく、みだらな行いをする女もなく、本当に皆は心から助け合って暮らしていたということであります。