じじぃの「初めてキリスト教会に行ってきた!道ありき」

賛美歌312番(いつくしみ深き) 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Bo-Cmd3JM4c
三浦綾子・光世 カセット−1 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=zM355dbWAFI
日本キリスト教団出版局 信徒の友
http://bp-uccj.jp/publications/magazine/s201308/
こころの時代 〜宗教・人生〜 「神は弱さの中にあり」 2015年10月31日 NHK Eテレ
【出演】木原活信(同志社大学教授)
「世の中は、通常、強いこと、物事を行う能力の高いことが評価される。しかし、人間は、もともと弱い存在であり、弱さを認め合うことで、生きやすい世の中に、多少なりともできるのではないか」と語る。
同志社大学教授・木原活信(きはら・かつのぶ)さん。長年、社会福祉に携わってきた。根底にあるのは、キリスト教の信仰。「自らの弱さを認める」とはどういうことか。
イエス・キリストの根本思想には、コンパッション(compassion、共感・共苦)がある」と語る。

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『道ありき(青春編)』 三浦綾子/著 新潮社 1980年発行 より
教会に通い始めたとは言っても、クリスチャンそのものに抱いていた、いくぶん侮辱的な感情を私は捨てきれなかった。なぜなら、信ずるということが、その頃のわたしにはお人好しの行為に思われたからである。
(あの戦争中に、わたしたち日本人は天皇を神と信じ、神の治めるこの国は不敗だと信じて戦ったはずではないか。信ずることの恐ろしさは、身に徹していたはずではないか)
その戦争が終って、キリスト教が盛んになった。戦争中に教会に集まる信者もまばらだったのに、敗戦になってキリスト教会に人が溢れたことに、わたしは軽薄なものを感じていた。
(戦争が終わってどれほどもたたないのに、そんなに簡単に再び何かを信じることができるものだろうか)
どうにも無節操に思われてならなかった。
そう思って教会に行くと、クリスチャンの祈る祈りにも、わたしは疑いを持った。祈り会で次々に祈る信者の祈りを、わたしは聞いた。みんなが両手を組み、敬虔に頭を垂れているのに、わたしはカッキリと目を見ひらいて、一人一人の顔をじっとみつめた。
「天にまします父なる御神、この静かなる今宵、共に祈り得ることを感謝いたします。どうぞ主のお導きによって歩み得ますように、切に祈ります……」
(ほんとうにこの人たちは、神の前に祈っているのだろうか。もしわたしが神を信じているのなら、神の前にあるというだけで、祈りの言葉など出てこないような気がする。ほんとうに神が、この世をつくり、この世を支配しているほどの偉大なる存在であれば、どうしてその畏るべき神の前に出て、べらべらと口が動くだろう。こちんこちんに固くなって、ぶるぶるふるえるのがほんとうではないだろうか。この人たちは神の前に祈っているのではなく、人に聞かせるために祈りの言葉を並べているだけではないのか)
そんな思いがしきりにした。どうもウソッパチな姿に思えてならなかったのである。わたしが信者になったなら、真実の祈りのできる、ほんとうの信者になろう、などとわたしは、傲慢な思いを持っていたのである。そしてその思いをわたしは、前川正にかくさず告げた。彼は、
「綾ちゃんは手きびしいなあ」
そう言うだけで、それ以上には何も言わなかった。
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(こんなにまで、父母に迷惑をかけて、生きていってよいものだろうか)
わたしは心弱くもそう思った。だがそのわたしを、叱りつけるようにして励ましてくれたのは、前川正だった。
「綾ちゃん、生きるということは、ぼくたち人間の権利ではなくて、義務なのですよ。義務というのは、読んで字のとおり、ただしいつとめなのですよ」
この言葉は、わたしをふるい起こした。
(そうか。生きるということは、義務だったのか。義務ならば、どんな苦しいことがあっても、まず生きなければならない)
こんなにまで経済的な負担をかけながら、生きるということは、何かずうずうしいことのように、わたしは思っていた。それが、人間としての義務だと言われると、何かしんとした謙遜な心持ちにさえなった。

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塩狩峠』 三浦綾子/著 新潮社 1973年発行 より
吉川は考え深そうな目で、信夫の顔をのぞきこむようにみた。信夫は深くうなずいた。うなずきながら、自分がきょう感じたバラの美しさを思い出していた。この地上のありとあらゆるものに、存在の意味があるように思えてならなかった。
「いいことを聞いたよ。君はいつもそんなふうに深く物事を考えているのか」
「いや、別に自分では深く考えているとは思わないがね」
「ぼくはかなり自信家だったが、このごろ自分がこの世に何の取柄もない存在だと思うようになっていたんだ。しかし今、吉川君の話を聞いていると、この自分もまた何らかの使命をおびている存在ではないかと、あらためて考えさせられたよ。花には花の存在価値というものがあるんだな。花を見て美しいと思い、ふしぎと思う心が与えられているかどうかは、やはりぼくたちにとって大きな問題なんだろうね」
「うん。そうだろうな。この世の中に、何らの意味も見出せないとする考え方もあるかもしれん。人間も犬も猫も、単なる動物に過ぎない。そして、死んでしまえばいっさいが無になる、という考えかたもあるだろう。だが見るもの聞くものすべてに、自分の人柄と深いかかわりを感じとって生きていく生き方も、あるわけだからね」

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どうでもいい、じじぃの日記。
5月10日、生まれて初めてキリスト教会に行ってきた。
私は68歳だ。片足を棺桶に入れて、今さらとも思う。
なぜか、賛美歌を歌っていて、涙がポロポロこぼれ落ちた。
いつまで続けられるかわからないが。