アウグスティヌス
煉獄
アウグスティヌス ウィキペディア(Wikipedia)より
アウレリウス・アウグスティヌス(ラテン語: Aurelius Augustinus、354年11月13日 - 430年8月28日)は、古代キリスト教の神学者、哲学者、説教者、ラテン教父とよばれる一群の神学者たちの一人。古代キリスト教世界のラテン語圏において最大の影響力をもつ理論家。カトリック教会・聖公会・ルーテル教会・正教会・非カルケドン派で聖人。母モニカも聖人である。日本ハリストス正教会では福アウグスティンと呼ばれる。
410年、ゴート族によるローマ陥落を機に噴出した異教徒によるキリスト教への非難に対し、天地創造以来の「地の国」「神の国」の二つの国の歴史による普遍史(救済史)の大著『神の国』によって応えた。この著作はアウグスティヌスの後期を代表する著作となる。
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『アウグスティヌス講話』 山田晶/著 新地書房 1986年発行
煉獄と地獄 (一部抜粋しています)
「煉獄と地獄」という題でお話したいと思います。ちょっと突飛な題と思われるかもしれませんが。
この世の中で善く生きた人間は、死んだ後に善い所に行く。悪く生きた人間は、悪い所に行く。こういう思想は非常に普遍的であって、世界の至る所、あらゆる民族のうちに何らかの形で見出されるのではないかと思われます。
たとえば有名なプラトンの『パイドン』においても、ソクラテスは人間の魂の不死であることを証明しようと試みて、いよいよ死が迫ってきたところで、死んだ後に善い所にゆく、自分は生きたから、これからゆく所で、昔からの善い人々に会うのがむしろ楽しみであると、そういうようなことをいっています。非常に感動的な場面です。
また、仏教の方でも、地獄と煉獄ということをいいます。キリスト教においても、天国と地獄ということが語られています。これははっきりと、イエス・キリストの口を通して述べられています。それによりますと、今お読みいただいたように[マタイ25・31-46]、最後の審判において、すべての国のすべての民が右と左とに分かたれ、天使たちを従えてやってきた[人の子]によって審かれます。そして祝福を受けた者たちは永遠の生命に入りますが、罰せられた者たちは永遠の火の中に投げこまれると、そういうことがいわれています。ですから、天国――それはいろいろなことばで表現されて、或いは極楽といわれ、浄土といわれ、楽園といわれて、それの内容にはいろいろ違いがあるかもしれませんが、大づかみにいって天国――と、それから地獄と、この2つの死後の世界がわれわれを待ちかまえているという思想は、おそらくすべての民族が何らかの仕方で持っているのではないかと思います。
ところがキリスト教におきましては、それが発展してきますと、そこに今日お話しようと思います「煉獄」(プルガトリウム)という思想が現れてまいります。これは天国と地獄との間に存在するものです。この思想の発端は既に初代教会に在るといわれ、4世紀初頭の教父キプリアヌスの著作のうちにも認められます。アウグスティヌスの『神の国』にも出てきますし、ずっと中世を通じて保持され、やがて地獄と煉獄と天国と、この3つの世界が1つの偉大な詩の表現を取ってあらわれるのが、ダンテの『神曲』です。ご存知のように、『神曲』は地獄篇、煉獄(浄罪界)篇、天国(天堂)篇という3つの部分から成っています。
ところで、そういう煉獄という思想が、果たして聖書のうちにあるのかということになりますと、イエスはたしかに天国に対し地獄ということはいっていますが、その中間に煉獄というものがあるということは、聖書のどこにもはっきりと述べられていません。そこで、そういう思想がどうして成立したのか、いかなる意味を持つのか、またそれが聖書のどういう所に根拠を持つのか、ということが問題になります。
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われわれはみな、主イエス・キリストにおいて兄弟なのだから、お互いに助け合わなければならない。しかし、われわれは単に生きている兄弟たちだけ助け合い、死んでしまったらどうでもよいというのではない。現に今、亡くなった多くの兄弟たちが煉獄で苦しんでいるのだから、それらの魂たちをも、なしうるかぎり助けなければならない。このようにして信者の兄弟としての連帯感は、現世の範囲をこえて、死者の魂にまで及ぶことになります。
しかしながら、煉獄の魂をいかにして助けるかが問題です。人間の魂は、生きている間ならば、苦しいことがあれば口に出して、「苦しい」とか「助けてくれ」とか叫ぶことができる。たとえ口に出して叫ぶことができなくても、苦しみは顔にあらわれる。われわれはそれを現に見ますから、何らかの仕方で助けを与えることができましょう。
ところが、死んでしまった魂は、どんなに苦しくても何もいうことができない。われわれは死者の叫び声を、少なくとも五感を以てしては感ずることができない。ですから、この世に生きていた間は、お互いに助け合おう、喜びも悲しみも共にしようということがじっさいできたわけですが、いったん亡くなった魂というものは、非常な苦しみをもって亡くなった場合でも、その苦しみを自分の魂のうちにとじこめたままで、人に伝えることができない。なぐさめを求めることもできない。そういう仕方でじっと火を耐えている状態である。だから、われわれはそういう魂のことを考えてやらなければならない。生きている時には、「助けてくれ」という人間があったならば、その人が急病ならば、救急車で病院に運ぶこともできる。飢えているならば食物をあげることもできる。しかし死んでしまった魂は、病院に運ぶこともできず、食物をあげることもできない。そういう魂にとって、ただ1つの慰めは祈りである。ですから、その意味で死者のために祈ること、祈りによって煉獄の魂を助け、その魂が一刻も早く煉獄の火を通過して天国に行くことができるように祈ること、それがキリスト者の大事な務めとなったわけであります。
そういう思想は、アウグスティヌスの『告白』の中にもあらわれています。それは第9巻の13章ですが、それまではずっと自分の母のことを語ってまいりまして、母がすぐれた女性であったことを語り、母を讃え、感謝を述べているのですが、しかしアウグスティヌスは、自分の母に何の欠点もあやまりもなく、直ちに天国に行けるとは考えていませんでした。そこで第9巻の13章では、母が完全な人であるとは自分は思っていないし、母自身がそう思っていなかった。母が亡くなるときに自分は頼んだことは、どうか自分のために主イエス・キリストに祈ってくれということだった。ですから私もこの『告白』を読む人々にお願いするが、どうか私の母のために祈ってやって欲しい。わたし1人の力ではなくて、みなさんの力でもって、自分の父や母が天国に行くことができるように、どうか祈ってやって欲しいと、そういうことを求めています。
ですから終末の時まで、われわれイエス・キリストを信ずる者たちは、単にこの世に現在生きている兄弟たちのために相互に助け合い、祈り合うだけではなく、同時に、われわれの目には見えない、われわれの五感の対象の世界からは消えてしまったが、しかしどこかに魂として存在している、そして復活の時を待っている、そういう友達、そういう人びと全体のために祈り合い、助け合わなければならないという思想がそこにはあるのです。