じじぃの「天地創造と進化論・神の7日間は憩いの中の自由だった!アウグスティヌス講話」

Creation for Kids - Genesis 1, Days of Creation 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=eiYhoBHpyEA
Did God rest on the 7th day?

How to keep the Sabbath in the 21st Century Illuminati Exposers
http://nwokillers.weebly.com/how-to-keep-the-sabbath-in-the-21st-century.html
アウグスティヌス講話』 山田晶/著 新地書房 1986年発行
神の憩い (一部抜粋しています)
『創世記』の第2章には、神は6日で創造の業を終わられて、7日目に休まれたということが書かれています。7日目に神が休まれたとは、一体どういうことであるか、つまり、神の憩いとは何を意味するのであるか、そういう問題について考えてみたいと思います。しかし神について考えると申しましても、われわれは人間ですから、やはり何らかの意味において人間のアナロジーを用いて、或は、人間のアナロジーを手がかりとして考えざるをえないのではないかと思います。
ところで、アナロジーというものを考えてみますと、アナロジーを有するものは、確かに似たものでありますが、同時にその反面、似ていない所を持っている、それがアナロジーを有するものであると思います。そのことを踏まえた上で、人間とのアナロジーを手がかりにしながら、神の憩いについて考えてみたいと思います。
聖書には、7日目に神が休まれたということが記されているわけですけれども、それに何か似たようなアナロジーがわれわれ人間の世界に在るだろうと考えてみますと、たしかに存在するように思います。つまりわれわれは、聖書の最初に書かれている神の創造のアナロジーに従って生活しているということが、はっきり云えると思うのです。それはどういうことかと申しますと、極めて平凡なことでして、われわれは、月火水木金土と6日間働いて、日曜日には休んでいます。1日休んで、また月火水木金土と6日間働いて、日曜日に休みます。こういう生活を繰返しています。
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そこで、これを神さまにあてはめて考えてみます。いったい神さまは何のために休まれたか。神さまは6日間天地創造のために働いて、大変お疲れになったので7日目に休まれた。そういうことは、まず考えられません。なぜなら、神さまの力は無限ですから、6日位働いても、疲れて休むというようなことはない筈です。ですから、『創世記』に書いてあるように、神さまが6日間働いて7日目にお休みになったのは、疲れたから休まれたわけでは絶対にありません。
それでは、遊ぶためでしょうか。神さまは6日間、義務的な労働として世界を創ったけれども、それがやっと終わったので、あとはゆっくりと骨休みをして遊び給う。そんなこともありえない。人間の場合には、アダムとイブが宣告されたように、生きてゆくには額に汗して働かなければならず、どんなに楽しいスポーツのような仕事でも、それがいよいよ食ってゆくための仕事となれば、決して「遊びごと」ではすまされず、つらいこと苦しいことが必らず起ってきます。しかし神さまにはそのようなことはありません。働くことも休むことも、神さまはまったく自由に行っておられるのです。
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ではいったい、自由とはどういうことでしょうか。われわれはみな、6日間というものはある意味で奴隷です。自分の仕事の奴隷です。子供のうちは勉強しなければならない。大人になれば何か職について仕事をしなければならない。いずれにしても額に汗して働かねばならないのであって、これは自由ではない。ところが、日曜日にはそうしたものから解放される。その意味で自由である。と同時に、そこでわれわれは一種の主体性を恢復し、いわば自分が自分になるという、そういう日ではないでしょうか。日曜日は主の日であるといいますが、これは主体的になるという意味でも主日でもあると思います。6日間はたらきづめではたまらないのに、日曜という日があるおかげで、とにもかくにも息を吹き返して、再び働きにつくことができます。それは日曜日がわたくしたちにとって、自由の日だからです。それでわたしたちは、日曜をエネルギーのもとにすることができるのです。
そこで今度は、この点を神さまについて考えてみましよう。そうすると、神は6日間働いて、7日目に創造の義務から解放されたから休むなどということは、勿論ありません。7日目における神の憩いとは、それまでの6日間が不自由であったから、それで7日目に自由を恢復されるのでもありません。神は憩いの中でも自由であるし、その働きにおいても自由である。神さまは憩いの中の自由によって、6日ということばで象徴される或る期間を働いておられる。そのように取れるのではないでしょうか。

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どうでもいい、じじぃの日記。
アウグスティヌスは、西暦400年ごろ活躍し、キリスト教の教義で重要な概念である『原罪』を確立した教父として知られる。
図書館から、山田晶著 『アウグスティヌス講話』を借りてきた。
「神の憩い」に、こんなことが書かれていた。
「そこで、これを神さまにあてはめて考えてみます。いったい神さまは何のために休まれたか。神さまは6日間天地創造のために働いて、大変お疲れになったので7日目に休まれた。そういうことは、まず考えられません。なぜなら、神さまの力は無限ですから、6日位働いても、疲れて休むというようなことはない筈です。ですから、『創世記』に書いてあるように、神さまが6日間働いて7日目にお休みになったのは、疲れたから休まれたわけでは絶対にありません」
旧約聖書の『創世記』第2章に、神は6日間で天地創造され、7日目に休まれたと書かれている。しかし、その後のことには全く記述がない。
こんなふうには、考えられないだろうか。
神は8日目に「打ち出の小槌」を造られた。その後、神が小槌を振るたびに被造物たちはすくすく育っていった。
アダムとイブの子孫は、この小槌で被造物たちが複雑で多様化していく様を進化と呼んだ。
ほんとかな。