じじぃの「イエスの初めての説教・気が狂ったと思った聖母マリア・イエスの孤独と悲しみ!マリアの涙」

'Tears of Mary' 動画 YouTube
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Pergolesi - Stabat Mater 動画 YouTube
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ピーター・シャビエル 「マリアの涙」

マリアの涙 感想 ピーター・シャビエル 読書メーター
信仰を持つ人達の思考過程は、持たない私にはよくわからない。 信じるマリア様が無原罪か否かという点が信徒間の争いの素になるとか。マリア様のお告げを受けた信徒を、その内容が宗旨に沿わないからといって精神病扱いしたりとか。一途な信仰ってのは一歩間違えたら排他主義に逸れて行っちゃうんだな〜と感じた。 それだけに信仰を持ってる人は強いんだろうな、とも。 仏教もそうだけど、大元は一つなのにいくつもの宗派に分かれていくのは そこに人間の生臭い思惑が絡んでしまうからなんだろうか。 奇跡とかお告げとかは現実的な話ではない。
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日本教養全集 18 『日本人とユダヤ人』 イザヤ・ペンダサン  より
ここで少しく、ナザレのイエスの処女降誕伝説についてのべよう。新訳聖書はキリスト教文書ではない。後代のものと一部の例外を別にすれば、それはあくまでも「新訳時代のユダヤ教文書」であって、キリスト教の成立と新約聖書の間には少なく見つもっても300年の開きがある。キリスト教徒のいう「三位一体」などは新約聖書のどこを開いても出てこない。第一、人間が神を十字架につけて処刑にするなどという思想は、モーセ以来の超越神の下に生きていた当時のユダヤ人の思想の中にあるわけがない。ニケーア会議までのキリスト教徒内の、現代人には全くわけのわからぬような論争は、イエスを神であるという思想を何とかこじつけて新約聖書に結びつけようとしたことにある。キリスト教は確かに聖書に依拠している。だが、聖書はキリスト教にその存在を依存しているわけではない。いわはキリスト教の一方的な片思いだから、たとえキリスト教が消えても聖書は残る。この関係は明確にしておかねばならない。
話が少し横道にそれたが、新約聖書を新約時代のユダヤ教の文書とするなら、ユダヤ人にも処女降誕伝説があったことになるではないか、ということになろう。例外とはそこである。明らかにユダヤ人が書いたものには一言一句もそんな言葉は出てこない。それどころか暗にそれを否定している言葉がある。例えば『マルコ福音書』。この書は、いわゆる四福音書の中で最も古く、他の三書の台本になっている。これにはイエスの生誕と幼時については何も書かれていないが、しかし、エスがはじめて説教をしたとき、母親のマリアは非常に驚き、イエスが気が狂ったといって、他の子供たちをひきつれてイエスを取り押さえに来たと、はっきり記している。これより見れば、イエスの出生も幼年時代も、普通の子供と少しも変わらなかったことは明らかである。もし本当に、いわゆる聖画の題材になっている天使による聖胎告知や出生の際の天使の来訪などがあったら、イエスが説教をはじめたからといってマリアがが驚くわけがあるまい。ついでに言っておくがこの福音書は、イエスのは墓が空だったと記しているが、復活したイエスに会ったり話したりした記録はない(後代の加筆を除けば)。処女降誕にふれていないもう一つの書は『ヨハネ福音書』である。ヨハネはまたイエスがベイトレヘム(ベツレヘム)で生まれたことも暗に否定している。この2つの書を見れば、マルコにとっては処女降誕など考えも及ばなかったこと、ヨハネにとっては全く問題外だったことが明らかである。

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『マリアの涙』 ピーター シャビエル/著 マガジンハウス 2010年発行
エスを気が違ったと思ったマリア より
カトリックプロテスタントでは、同じキリスト教でも違った教義を信じる部分があり、その関連で聖句を違ったように解釈することがある。たとえばイエスの兄弟ということについて言えば、カトリックでは、イエスが生まれてからも養父であったヨセフとの間には性関係はなく、マリアは生涯処女であったということを信じるので、イエスには弟も妹もいなかったと考える。
ところがプロテスタントでは、おおむねイエス処女懐胎は信じるが、一生涯処女であったとは考えない。
それは『マタイによる福音書』第1章24ー25節に「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた」と書かれていることを根拠としている。「イエスが生まれるまで」を文字どおり解釈するので、それまではヨセフとマリアの間に夫婦関係はなかったが、イエスが誕生sてからは夫婦としての性関係を持ったはずだから、一生涯処女であったということは事実ではないと解釈する。
それゆえ聖書に弟や妹がいたと書いてある(『マルコによる福音書』第6章3節「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ユセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか」など)ので、それを文字どおり受け取り、イエスには少なくとも4人の弟と2人以上の妹がいたと考えるのである。
それでは聖書にイエスの弟や妹のことが書かれているにも拘わらず、どうしてカトリックはイエスには弟や妹がいたことを否定し、マリアはイエス誕生後もヨセフと性関係は持たず、生涯処女であったと信じてきたのだろうか?
それにはいくつかの理由がある。主なものの1つは他の言語でも見られることであるが、ヘブル語の方言でイエスが実際語っていたと考えられるアラム語では、兄弟という言葉には従兄弟や身内という意味もあるからというものである。つまり、イエスの弟や妹と書かれていても、実際にはそれは従弟、従妹のことを意味していると解釈するのである。
もう1つの理由は、ヨセフは以前結婚しており、前妻との間に連れ子がおり、兄弟や姉妹というのは、マリアとの間に生まれた子供ではなく、前妻との間の子であるというものである。この説だとヨセフは非常に年をとっており、マリアとの間に性生活を送ることはできない年齢であったため、マリアは一生涯処女であったということになる。カトリックの人たちの中には、今でもどちらかを信じている人が多い。
道生が美香子に語った言葉から考えて、道生はきっと「私はイエスのことを気が違ったと思ったことがあるのです」というマリアの言葉に何らかの意味で関係するものを聖書の中に見出そうとしたのではないか。真理夫はそう思っていた。
そして、新約聖書を読み続けていた真理夫は、『マルコによる福音書』の中に、マリアが美香子に語ったその言葉と密接に関わっていると考えられる箇所があるのを見つけたのだ。それは、第3章20ー21節である。
「(20節)イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。(21節)身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである」
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キリスト教の経典である聖書の翻訳にはどうしても解釈が含まれるため、従来、それぞれのキリスト教諸派は、各派の教義に色濃く影響された独自の翻訳聖書を用いてきた。だが『新共同訳聖書』には、各教派の教義理解を超えて、現代の聖書学の成果に基づき、より聖書の内容に忠実な訳が試みられた可能性があると思われたからである。もちろんそうだからと言って、それがカトリック教会の公的な見解を意味するものではなく、正式な教義とは相容れないものを含んでいる可能性は十分あるが、それでも何人かの優秀なカトリック神学者たちが関わったことは確かであった。
(ということは、イエスの母マリアと弟たちが、人々がイエスを気が違ったと言っているのを聞いて、彼らもそれをそのように信じてイエスを拉致しに来たということなのだ。マリアは、イエスを気が違ったと思われたことがある。つまりイエスの本当の心をマリアが理解できなかったということになる。このことは、一体何を意味するのだろうか? 罪のないマリアが救い主であるイエスの気持ちやそのなされていることの意味を理解できないというのでは、どう考えても矛盾している。そして理解できないだけではなくて「気が違った」とまで思うのは、単なる考えの足りなさで済まされることではないのではないだろうか?)
救い主であるイエスイスラエルの他の人々から異常だと思われただけではなく、自分自身の家族からも、そして、誰よりもイエスを最も理解し、1つであるはずの母マリアからも、気が違ったと思われていたのだ。
真理夫はそのことを思うと、イエスの孤独と悲しみが伝わってくるような気がして、イエスがとても可哀相に思えた。そしてそれは、真理夫が幼い頃、マリアに因んだ真理夫という名前のゆえによく虐められたときのことと重なり、非常に実感を持って感じられた。
エスの生きていたときから2千年経った現代では、キリスト教が迫害されている国が依然として存在するとはいえ、イエスは世界の20数億の人々から救い主として信じられている。またクリスチャンからだけではなく多くの人々の尊敬を集めている。だから聖書を読んでも、普段はイエスが実際に受けた迫害や、味わった苦難や孤独を、実感を持って感じることはなかなか難しい。ある意味では、イエスと同じような道を辿ることによって初めてイエスの気持ちは理解することができるのだろう。

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どうでもいい、じじぃの日記。
ある新興宗教の女性信者から、1冊の本 『マリアの涙』を渡された。
前にピーター・シャビエル『イエスの涙』を読んだが、この『マリアの涙』も同じピーター・シャビエルの作品だ。彼女によれば、『イエスの涙』よりも感動したということだった。
ある聖書の解説書には、「イエスは自らキリストになったのか」と、疑問を投げかけるのがあった。
エスは自分を「よき者」とは呼ばせず、また、「キリスト」をユダヤ的メシア待望と結びつけて「ダビデの子」と呼ぶことも否定してもいた。
聖書の中に、「群衆がまた集まってきたので、一同は食事をする暇もないほどであった。身内の者たちはこの事を聞いて、イエスを取押えに出てきた。気が狂ったと思ったからである」、と書かれている。
エスの母マリアは、自分の子が初めて説教をしたのに驚いて、イエスが気が狂ったのではないか、と思ったのだ。
エスは十字架で磔刑にされ、神となった。
「マリアの涙」は息子イエスの死を悲しむ一人の母の涙であった。