じじぃの「人の死にざま_910_聖母マリア」

聖母マリア - あのひと検索 SPYSEE
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聖母マリアからのメッセージ Vol.01 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=r5Btv8JflOE
11奇跡の写真 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=mcNG38T2wRY
聖母マリア ウィキペディアWikipedia)より
聖母マリアは、イエス・キリストナザレのイエス)の母、ナザレのヨセフの妻。ヨアキムとアンナの娘とされている。

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日本教養全集 18 『日本人とユダヤ人 イザヤ・ペンダサン (一部抜粋しています)
新約聖書を新約時代のユダヤ教の文書とするなら、ユダヤ人にも処女降誕伝説があったことになるではないか、ということになろう。例外とはそこである。明らかにユダヤ人が書いたものには一言一句もそんな言葉は出てこない。それどころか暗にそれを否定している言葉がある。例えば『マルコ福音書』。この書は、いわゆる四福音書の中で最も古く、他の三書の台本になっている。これにはイエスの生誕と幼時については何も書かれていないが、しかし、イエスがはじめて説教をしたとき、母親のマリアは非常に驚き、イエスが気が狂ったといって、他の子供たちをひきつれてイエスを取り押さえに来たと、はっきり記している。これより見れば、イエスの出生も幼年時代も、普通の子供と少しも変わらなかったことは明らかである。もし本当に、いわゆる聖画の題材になっている天使による聖胎告知や出生の際の天使の来訪などがあったら、イエスが説教をはじめたからといってマリアがが驚くわけがあるまい。ついでに言っておくがこの福音書は、イエスのは墓が空だったと記しているが、復活したイエスに会ったり話したりした記録はない(後代の加筆を除けば)。処女降誕にふれていないもう一つの書は『ヨハネ福音書』である。ヨハネはまたイエスがベイトレヘム(ベツレヘム)で生まれたことも暗に否定している。この2つの書を見れば、マルコにとっては処女降誕など考えも及ばなかったこと、ヨハネにとっては全く問題外だったことが明らかである。

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『世界と日本の怪人物FILE』 歴史雑学探究倶楽部/編集 学研 2010年発行
聖母マリア(起元前1世紀頃 出生地不明) (一部抜粋しています)
エスの生みの母、聖母マリア。清らかで美しく、慈愛に満ちた存在として、世界各国において信仰の対象となっている。アジアや中南米キリスト教徒では、イエス・キリストへの信仰よりも盛んなほどだ。
聖書によると、マリアは現在のイスラエルにあるナザレという街に住んでいた。信仰は深いが平凡な少女で、婚約者であるヨセフのもとに嫁ぐのを待ちながら、静かに暮らしていた。
その少女を、神は「救世主の母」として選んだ。その結果、マリアは処女のまま受胎し、イエスを産んだのだ。おのとき、マリアはまだ14歳だったともいう。
若い母親は、わが子を慈しみ育てただろう。だが、聖書は母と子の暮らしについてほとんど何も伝えていない。聖書が成立した時代、つまり最初期のキリスト教徒たちは、マリアの存在に特に大きな注意を払っていなかったのだ。
その状況が変わったのは、教団が成立し、各地で積極的な布教を始めてからである。キリスト教唯一神を信仰する一神教だが、布教の過程で他の土俗宗教と混じり合い。教えも少しずつ変容していった。
キリスト教の旧教であるカトリックで、マリア崇拝が正式に認められたのは、431年の公会議でのことだが、会議が行われた小アジアのエフェソスは、女神アルテミス信仰の中心地だった。つまり、女神を信仰する地域にキリスト教を根づかせるための方便として、マリアへの崇拝が取り入れられたのである。こうしてマリア信仰は拡がり、マリア伝説も生まれていった。