じじぃの「愛すべき生物・アメーバのように動く粘菌!科学の扉をノックする」

20th First Annual Ig Nobel Prize Ceremony 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=oIKnFZhCr2k
Slime Mold Physarum Finds the Shortest Path in a Maze 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=czk4xgdhdY4&feature=related
Slime mold form a map of the Tokyo-area railway system 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=GwKuFREOgmo&feature=related
粘菌のライフサイクル 画像
http://homepage2.nifty.com/halhy/NENKIN/04.jpg
粘菌 Google 検索
http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&q=%E7%B2%98%E8%8F%8C&gs_upl=0l0l1l965334lllllllllll0&sa=X&oi=image_result_group
真性粘菌のページ
1.真性粘菌って何?
真性粘菌は、「…菌」とつくので、菌類(カビの仲間)のようですが、カビにはない、ヘンな性質がいろいろあります。
ある科学者は、「これは最初、他の星からこの地球に、落ちてきた、動植物の原型ではないかと思った」と言っています。誕生したばかりの、まだ生物のいない地球に、この真性粘菌が落ちて来て、いま地球にいる動物や植物が進化してきたのかも知れないと思ったのです。というのは、この生物、動物と植物の両方の性質をもっているのです!
http://homepage2.nifty.com/halhy/nenkin.html
爆問 「単細胞は天才なのだ〜生物学・中垣俊之」 2009年12月15日 NHK
【キャスター】爆笑問題 【出演】北海道大学准教授 中垣俊之
動物でも植物でもなく菌類でもない、謎の単細胞生物「粘菌」。そこに人間もびっくりの意外な知性が備わっていることを明らかにしたのが、中垣俊之北海道大学准教授だ。脳も感覚器官も持たないはずの粘菌が、記憶し、時間の感覚を持ち、迷路まで解いてしまうという。「思考」とは「知性」とは何なのか?粘菌は下等で人類は高等といえるのか?爆笑問題が粘菌との知恵比べに挑戦。その衝撃の結果とは?
http://www.nhk.or.jp/bakumon/previous/20091215.html
脳を持たない知能のカギ「粘菌」、活躍する日本の研究者たち 写真3枚 2012年01月03日 AFPBB News
脳を持たない原生生物なのに迷路の中を進むことができる「粘菌」が、理想の交通ネットワークを設計考案する上で役立つかもしれない。落ち葉に生息する単細胞生物にしては「上出来」だ。
アメーバー様で黄色い粘菌は、地球上に数千年前から存在していたが、粘菌たちの生活はハイテクとはほど遠いものだった。だが、科学者たちは、複雑な問題を解決することのできるバイオコンピューターを設計する上で、この粘菌の生態が鍵になるかもしれないと語っている。
■粘菌研究でイグ・ノーベル賞
はこだて未来大学(Future University Hakodate)の中垣俊之(Toshiyuki Nakagaki)教授は、シャーレ上で培養している粘菌をえさ場への迷路に入れると、最短経路を探し当て、それに沿って自分の細胞を組織化すると述べる。
中垣教授によると、粘菌には自分にとって害となる光などのストレス要因を避けながら、えさ場に到達するという、経路の「最適化」を行える一種の情報処理能力があるようだ。
函館(Hakodate)にある研究室で、中垣氏は「人類だけが情報処理能力のある生き物だとは限らない」と語る。「単純な生物でさえ、ある程度の難しいパズルを解くことができる。もし生命や知能についての根源は何かということを考えていこうとすれば、単純な生物に使うほうがわかりやすい」
粘菌よりも単純なものはない。粘菌は落ち葉や枯れ木に住み着き、バクテリアを食べる生物だ。中でも真正粘菌のモジホコリ(Physarum polycephalum)は、顕微鏡なしで肉眼で見ることのできるサイズに成長する。見た目はマヨネーズのようだ。
中垣氏のモジホコリを使った研究は、2008年と10年に「イグ・ノーベル賞(Ig Nobel Prizes)」を受賞した。ノーベル賞(Nobel Prize)のパロディー版である同賞は「一見、人々を笑わせ、それから考えさせるような」科学研究に授与される賞だ。
■最適ルートを発見する粘菌
知能の鍵を探すのに、粘菌を研究するのは奇妙に思えるかもしれない。だが、粘菌こそがスタート地点にふさわしいと研究者たちは語る。
九州大学(Kyushu University)の手老篤史(Atsushi Tero)准教授は粘菌の研究について、人間の知性のメカニズムを探求する上でおかしな研究ではなく、かなり正統なアプローチだと述べる。手老氏によると、粘菌は人類の最先端技術よりもはるかに効果的なネットワークを作りだすことができるのだ。
「複数の通過点を経由する最適ルート分析は、コンピュータの得意な分野ではありません。なぜならこの種の計算は膨大になってしまうからです」と手老氏は語る。「しかし粘菌は、全てのオプションを計算することなく、場当たり的に広がりながら最適ルートを徐々に見つけていきます。粘菌は何億年も生き続けた結果、環境の変化に対して柔軟に適応できるようになり、不測の要因にも耐えうるネットワークを構築できるようになったのではないでしょうか」
粘菌は温度や湿度の変化といったストレスにさらされると、活動を停止することが研究で分かっている。さらにストレスを「記憶」し、同じストレスを体験すると予測したときに、あらかじめ自己防衛的に活動を停止することも判明している。
手老氏の研究チームは、東京を中心とした関東圏の鉄道網によく似たパターンを粘菌に形成させるのに成功した。鉄道網は人びとが知恵を絞って、作り出したものだ。手老氏は、将来の交通網や、停電時の迂回も組み込んだ送電網計画などにこうした粘菌ネットワークが使われることを期待しているという。
■粘菌を使い、人間の脳に近いコンピューターを
理化学研究所(Riken)の研究者、青野真士(Masashi Aono)氏は、人間の脳のメカニズムを研究し、やがて人間の脳を粘菌で複製することが研究の目標だと語る。
「低次な細胞の情報処理能力を研究することが、人間の脳のメカニズムの解明につながると思っています。研究者として、(そのような手法で解明する)モチベーションとか野望はあります」と青野氏は述べる。
いわゆる「粘菌ニューロコンピューティング」の応用例には、粘菌のネットワーク形成に用いられる手法に基づいて設計された新たなアルゴリズムやソフトウエアなどの創造なども含まれる。
青野氏は「究極的には、粘菌そのものを使い、人間の脳がもつ情報処理システムに近いコンピュータを作ってみたい」と述べ、「粘菌は中枢神経など持っていないが、自らの流動性を利用して知性があるように動いている。それってすごい。私にとって粘菌は小宇宙です」と語った。
http://www.afpbb.com/article/environment-science-it/science-technology/2848285/8234962
『科学の扉をノックする』 小川洋子/著 集英社 2008年発行
人間味あふれる愛すべき生物、粘菌 (一部抜粋しています)
粘菌とは、何と不思議な名前であろうか。文字を目にしただけで、あるいはネンキンという言葉の響きを耳にしただけで、子供の頃味わったあのえも言われぬ手の感触がよもがえってくるようではないか。しかも菌と言いながらばい菌のように悪さはせず(たぶん)、人目につかない場所で、どうぞ私の事にはお構いなく、とでも言いたげにこっそり生きている。この謙虚な姿勢が好ましい。
という訳で今回は、幼い私が作り上げた想像の森に住む妖精に会いに行くつもりで、南方熊楠賞もお取りになっている粘菌研究の第一人者、竹内郁夫先生のお話を伺うこととなった。
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『先端科学の現在、大腸菌から宇宙まで』(潮ライブラリー)の中で、この細胞間のコミュニケーションについて、臨床心理学の河合隼雄せんせいがおもしろい指摘をなさっている。例えば100人の集団に、言葉を発したり顔で相図したりすることを禁じたうえで、源氏と平家に分かれるよう指示すると、だいたい同数になるという。そこで指導者が、6人源氏の方が多いから、3人、平家に行くように、と言うと黙って3人がぞろぞろ移動する。次に源氏と平家、1人ずつ大将を選ばせると、また黙ったままで大将が選ばれる。
この場合も人間たちは、粘菌の細胞レベルで行われているのと同じく、言葉にならない信号を出し合って、集団が安定するように行動しているのだろう。生命にとって最も大事な分かれ道においては、言葉などという小手先の道具は対して役に立たないのかもしれない。粘菌は自分の意思や希望を持たず、ただひたすら神様の声にじっと耳を傾けることで、次の世代に種を残しているのだ。
さて、子実体(しじったい)になる前のナメクジを半分に切るとどうなるか。ここにも興味深い結果が隠されていた。
「ナメクジを半分に切っても、2つともが正常な子実体になります。各々、柄と胞子の細胞の割合が正常な子実体になります。かなり融通がきくんです。ただし、乾燥を速めて、子実体の形成を急がせますと、半分に切った前半部分、つまり元々柄になる細胞が含まれていた方は、柄が非常に太くて、法師が小さな子実体ができます。慌てるですね。調節する時間がなくて、しかし、ちゃんと十分な時間を与えてやりさえすれば、正常な割合の子実体になります」
慌てるとはまた、可愛らしい。突然半分に切られるだけでも大騒動なのに、どんどん環境が悪くなって、それでも胞子を残そうと懸命に子実体になるのだ。柄の太い、ちょっと不細工な子実体を思い浮かべると、彼らの健気さに心を打たれ、ますます粘菌が好きになってしまう。
時間的余裕を与えなかった場合、柄が太くなり胞子が小さくなる、ということは、柄になると決めた細胞が胞子に方向転換する方が、その逆より難しいということになるのだろう。それだけ柄になる覚悟には重みがあるのだ。やはり粘菌であっても、死ぬのは簡単ではない。それ相当の決心がいる。
俺はもう死ぬと決めたんだ、だからお前は立派な胞子になれよ、上まで行ってもう下には戻ってくるなよ。オレが立派に支えてやるからな、何の心配もいらないぞ……。
柄が発揮する犠牲の精神には、人間的な温かみがある。むしろ現代の日本で失われつつある高度な精神性を、森の奥に隠れた粘菌が人知れず発揮しているようにも思える。
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勝手なイメージから粘菌は森に住んでいると思い込んできたが、そもそも彼らはどこにいるのだろう。
「だいたい土の中にいるんです。餌としてのバクテリアがあると、それを食べてどんどん増えてゆきます。餌をやる以外、特別に飼育する必要などありません。この状態では、バクテリアを食べて自らを増やしてゆくばかりで、発生的なことは何もやらないんです。ところが、餌がなくなると、集合という現象が起こって、ナメクジのようになって這い回る。それで乾燥してくると子実体を作る、と劇的な変化が起こってくるわけです」
こんなふうに姿を変え、性質を変えてゆく粘菌に日々接していると、私なら愛着がわいて感情移入してしまうかもしれない。
「ナメクジのように動く粘菌を見て、気持ち悪いから嫌だと言った人もいます。動くから気持ち悪い、と言われたらどうしようもありませんね」
竹内先生は実に穏やかな微笑を浮かべられた。
粘菌は生命の不思議さを追求するための、大事な研究材料になっている。ありふれた場所に住み、簡単に培養でき、分化の様子は簡潔であり、なお且つ神秘的である。私たち人間がどのようにして形作られているのか、深い謎を解くための鍵を、この目立たない控えめな存在が隠し持っているのだ。
私が最も驚いたのは、人間とは似ても似つかない、”下等”な生物であるはずの粘菌が、大変に人間臭い生き方をしていることであった。いや、むしろ人間以上の知恵を持って、この世界を生き抜いていると言っていい。まず、動物的な面の両方を兼ね備え、その境界線を楽々と自由に行き来する様が新鮮である。2つのうちどちらかを1つを選ぶのではなく、あえてあいまいであることを受容している。人間が厳しい環境を少しでも快適にするため、クーラーやストーブを発明して地球の資源を消費し続けている間、粘菌は自らの性質を変化させることで、環境に適応してきた。人間には思いもつかない大胆なやり方ではないか。
また、子実体を作る時のパーセンテージの理解。ここにもドラマが感じられる。ナメクジの、地面に近い部分は基盤となり、先頭20パーセントは柄、後ろ80パーセントは胞子になる。これは偶然によって決まる。偶然という論理的には説明できない、あいまいな概念は何も人間の運命だけに関わってくるのではない。どんなに単純な一生に見えても、粘菌にだって偶然は大切な要素なのだ。一個一個の細胞が自分の使命を果たすために、偶然を受け入れる。その結果が個体全体の安全と種の保存につながってゆく。犠牲という言葉の意味など知らなくても、粘菌は立派に犠牲の精神を体現している。

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どうでもいい、じじぃの日記。
小川洋子著 『科学の扉をノックする』という本を見ていたら、「人間味あふれる愛すべき生物、粘菌」があった。
「粘菌は生命の不思議さを追求するための、大事な研究材料になっている。ありふれた場所に住み、簡単に培養でき、分化の様子は簡潔であり、なお且つ神秘的である。私たち人間がどのようにして形作られているのか、深い謎を解くための鍵を、この目立たない控えめな存在が隠し持っているのだ」
アメーバ、ナメクジのように動く粘菌は、動物と植物の両方の性質をもっているのだという。こんな単細胞からできている粘菌を「迷路」に入れると、最短経路を探し当てそれに沿って自分の細胞を組織化して動くのだそうだ。
週刊朝日』 2010年1.8号の対談 五木寛之vs.姜尚中「新・鬱の時代」の中で五木寛之氏がこんなことを言っていた。
五木 そうですね。2010年の明るい話題を1つ言えば、いろんな関心の中心点が変わってくるでしょう。これまで医学の辺縁にあった精神科、免疫学、公衆衛生などが中心におかれて、新しい光を浴びるはずです。心の病にしてもメディアでもアートの世界でも、すべてにおいて権力移行の季節が来たという意味では、おもしろい時代だと思いますね。
今まで、日の目が当たらなかった、不思議な生き物たち。身近にいる微生物たちが「トンデモない生き物たち」なのかもしれない。
おまえらの時代なのだ。